2012年9月 イスラエル
テルアビブ、ナザレ、ティベリア
テルアビブ、ナザレ、ティベリア
イスラエルまで日本から直行便が飛んでいないので、韓国経由で17時間かけて、テルアビブのベングリオン空港にたどり着く。9月初旬とはいえ、8月の日本のようにとても蒸し暑い。ベングリオン空港では長い傾斜路が上下で交錯し、下りは到着、上りは出国という光景が印象的だった。
地中海に面したテルアビブは海風が心地良い。海岸沿いにビーチがあるが、波はとても高い。
マリアが受胎告知を受け、キリストが青少年期を過ごしたナザレ村。現在は新市街地が広がって近代化されているが、丘陵地の旧市街は雰囲気が残っている。
受胎告知教会。マリアが受胎告知を受けたとされる洞窟の場所が残され、その周囲を近代的な教会が覆っている。
受胎告知教会には各国風のマリア画がずらりと並ぶ。ブラジルは太陽神風マリア、中国は天女風、韓国はチマチョゴリを着たマリア。日本は堂々と、かぐや姫と金太郎だった。
受胎告知教会の敷地内にある聖ヨセフ教会。マリアの夫ヨセフが大工仕事をしていた場所に建っているという。イエスの聖なる父は神なので、キリスト教の芸術や教会において、ヨセフの存在感は薄い。この教会では、父ヨセフ―子イエスという人間的な表現が全面に出されており、ヨセフの父性に何となく安心した。
マリアの井戸。現在は井戸の水は涸れ、空き缶やゴミが投げ捨てられて、もの悲しげな光景だった。
イエス伝道の地ガリラヤ湖。イエスが奇跡を起こした場所に点在する教会にバスで訪れる。猛烈な暑さなので喉がすぐに渇く。カペナウム村のギリシア正教教会にある水飲み場は悪魔的で近寄りがたかった。手を近づけると食べられそうで不気味。
ペテロ首位権の教会。イエスが漁師ペテロに出会った場所。教会の祭壇は岩でできており、復活後のイエスが弟子に食事を与えたとされている。
パンの奇蹟の教会。イエスがわずかな魚とパンを祝福して、5000人分の食事に変えた場所。
ティベリア名物料理の「聖ペテロの魚」。聖書にも登場する、ペテロが釣っていた魚。味は淡白で、ライムをかけて食べる。
13世紀のユダヤ教哲学者マイモニデスの墓。彼はエジプトで活動し没したが、墓石はガリラヤ湖にある。墓石は男性女性と壁で半分に仕切られている。学校にあるような椅子と机が並び、卓上にはマイモニデスの著作や聖書。参拝者の青年は墓石の上でマイモニデスを熟読していた。亡き師の墓石に接した、衝撃的な読書風景。「どんな気持ちですか?」と聞くと、「こんなに素晴らしい著作を残してくれてありがとうと声をかけながら読んだ」。彼は足が悪いらしく、同じく足を引きずる母親と一緒に車椅子で去っていった。
ティベリアのバス・ステーション。緑色のエゲット・バスがイスラエル全土を結ぶ。イスラエルはインターネットが整備された国で、バスの車内ではWifiが飛んでいる。
エルサレム
エルサレム
2010年、小林康夫氏ら「東京大学・共生のための国際研究教育センター(UTCP)」のチームがイスラエルで国際会議を開いた。そのときの記録映像を編集してほしいと依頼されたので、映像作品「どこにもない場所のための祈り」として完成させた。小林氏は「人文学研究者にとってエルサレムは地球の特異点」と語っているが、私も同じ想いをもっていて、いつかエルサレムを訪れてみたいと願っていた。撮影されたUTCPの映像を編集するだけでワクワクした。今回、幸運なことに、ワークショップへのゲスト参加依頼を春先に受けて、早くもその念願が叶ったのだった。
ワークショップの前日、参加者全員でのツアーが組まれた。午前中は「諸民族の都市」と題された政治的バスツアー。現在、エルサレム郊外に続々と建設されている分離壁をたどりながら、ユダヤ/パレスチナの人々がいかに分断されているかを目撃した。
午後は旧市街地で徒歩散策「宗教の未来」。イスラームの聖地は信者以外は入れないので、主にユダヤ・キリスト教の宗教施設をまわった。
ガイド役のユダヤ人研究者が説明してくれた。「イスラーム教の「岩のドーム」は、伝説によると、ムハンマドがその正面の床石に19本の金の釘を打ち込んだ。この釘がすべてなくなったときに地球はカオスに陥る。現在は3本しか残っていない。神聖な中心部には、白装束を着たわずかな聖者しか入室がゆるされていないそうだ。まるで原発みたいだけど」。参加者の何人かは笑っていたが、私には到底笑えないイメージだった。
聖墳墓教会。ローマ皇帝コンスタンティヌスの母で熱心なキリスト教徒だったヘレナによってゴルゴダの丘に建てられた。それ以来、キリスト教最大の聖地のひとつとなっている。
ゴルゴダの丘でイエスが磔刑に処せられた場所。
聖母マリアがイエスの亡骸を引き取ったという場所。熱心な信者らは最大限の信仰心を込めて身を投げ出して祈りを捧げていた。
イエスの墓室。
ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)。十字架を背負ったイエスが歩いた全長1キロの道。
聖母マリアがその両親と住んでいたとされる場所に建てられた聖アンナ教会。
ゲッセマネの園。イエスが祈りのために頻繁に訪れていた場所。最後の晩餐の後、この園で自分の運命を自覚する。
ゲッセマネの園に隣接した「苦悶の教会」。
嘆きの壁。ローマ軍によって70年に破壊された第二神殿の壁の一部。
また、ダビデの塔は歴史博物館になっており、カナン時代から建国に至るまでのユダヤ民族の歴史がさまざまな資料で展示されており、とても有益だった。
ワークショップ「人文学の未来――学問分野の秩序」
ワークショップ「人文学の未来――学問分野の秩序」
テルアビブ大学のミネルバ人文学センターとフランクフルトのゲーテ大学、ベルリンの文学・文化研究センターの主催で、1年間の共同研究プロジェクト「人文学の未来」が実施されている。今回はその合宿的な4日間のワークショップがエルサレムで開催され、テルアビブ大学の友人ナヴェ・フルマー氏の計らいで特別ゲストとして招聘してもらった。
会場となった「ヴァン・レーア・エルサレム研究所(The Van Leer Jerusalem Institute)は1959年にヴァン・レーア家によって設立された研究センターである。研究所はイスラエルがユダヤ民族の故国として、正義と公正に基づく民主的社会として発展することを目的に掲げ、哲学、社会、歴史、政治、文化、教育に関する学際的な研究と討論の場として機能してきた。大統領府とイスラエル科学・人文学アカデミーに隣接していることからもわかるように、イスラエルにおける学術の重要拠点である。研究所は常勤・客員の研究員を擁し、「先端研究」「イスラエルの市民社会」「ユダヤの文化とアイデンティティ」「地中海の隣人たち」といった四つの主要テーマのもとで、これまでに200以上のプロジェクトを実施してきた。
計30名ほどが参加するこじんまりとした合宿で、事前に全発表原稿(180頁ほど)がメールで配布された。事前に原稿を読んできて、当日は執筆者による簡単な説明があり、司会のコメントの後、すぐに議論に入る。経済系など他の分野では実施されているというこの形式は人文系では稀だろう。事前に全テクストを通読しなければならないのは重荷だが、あらかじめ自分のコメントや見解を膨らませておける点では大変有益だった。
2日間は自発的な全体自由討論に充てられた。まず、希望者が「人文学の危機と未来」に関する主題を選んで、ボードに書き込んでいく。「技術と人文学」「学際的共同作業」「人文学と脱植民地化」「別の仕方での研究教育」など、5−6つほどの主題が集まったところで、各人が好きなグループに分かれて議論開始。多くの参加者がいるところもあれば、提題者しかいなくて開催できないグループもある。
2時間の討論中、移動は自由。簡単な記録を取り、終了後、メールで討論結果を共有する。こうしたセッションが2日間、計4回実施されたわけである。たしかに自由討論は必ずしも厳密な学術的理路を構築するわけではなく、往々にして、私的な経験にもとづく雑談風にもなってしまう。だが、論理的道筋は必ずしも明確ではないものの、参加者の熱心な発言のおかげで、問題や課題が次々と累積していく様は実に活動的な共同作業だった。
2日目の夕方に映画「哲学への権利」の上映・討論がおこなわれたが、これまででもっとも冷淡な反応だった。とりわけ、現実主義的なイスラエルの研究者の多くには、コレージュの様子がひどくユートピア的かつアナーキーに映ったようで、自分にはまったく関係のない話と言わんばかりだった。「社会のなかで抵抗する哲学の使命」という主張は実に不評だった。海外上映でシビアな反応に満ちた会場は辛かったが、「哲学の現実」の新たな一側面を知れた気がした。
大御所三人によるセッションは一般公開形式で実施された。右から、Helga Nowotny(European Research Council・所長)、Gabriel Motzkin(ヴァン・レーア・エルサレム研究所・所長)、Rivka Feldhay(ミネルヴァ人文学センター・所長)。Nowotny氏の講演は印象的だった。「私たちは十分な資金を得て、数多くのプロジェクトを成功させている。人文学の研究活動なら、たしかに、つねに、何かをやっている。しかし、それで普遍的な地図を描けるようになる気がしないし、体系的な地図のなかで自分たちの進路を見定められる気がしない。」
海外に行くと、学術界のリーダーの資質について考えさせられる。研究所やプロジェクトの責任職リーダーのレベルの高さに圧倒させられるのだ。彼らは往々にして3言語以上に堪能であり、複数言語で論文が執筆されている。異なる国の大学の教職を歴任し、客員教員・研究員も複数の国で経験している。責任職で多忙ながらも刊行物の勢いに衰えがない。ユダヤ民族は教育を重視し、知性を尊重してきたが、イスラエルに綜合大学は8つしかない(カレッジは30校程度)。よって、一般の研究者は言うまでもなく、責任職に就く精鋭な研究者のレベルもひときわ高いのだろう。Helga Nowotny氏を例にとれば、彼女はマクロ社会学から科学技術社会論(SHS)までを専門とし、故郷のウィーンをはじめ、ケンブリッジ、ベルリン、パリ、ブダペスト、チューリッヒなどで研究教育歴がある。数々の責任職を歴任した後、現在は欧州研究会議の議長を務めている。英語とドイツ語で単行書を書いており(各国語に翻訳)、これまでに300本以上の学術ジャーナル論文を刊行している。
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ひとつの国のひとつの大学でしか研究教育の経験がなく、自国語以外ではさほど論文を書いておらず、責任職の多忙さを理由に公刊物が減少する――責任あるリーダー・ポストの研究者ならば、こういったことでは不適格だと海外で思い知らされる。「国際競争で勝つため」と大げさに言わぬまでも、「一定程度のレベルで国際交流を進展させ拡充させる」ためにはリーダーの資質と経験はやはり重要だろう。
ワークショップは事前に主催者から、「人文学をめぐる認識論的な傷、規範的な傷、制度的な傷とは何か」という提題がなされた。数々の充実した発表から印象に残った主題は次の通り。「啓蒙期以来、近代の人文学は宗教の問いと格闘してきたが、近年、世俗性の議論、政治神学の再興、宗教の歴史研究といった形で宗教的なものが回帰している。」「『人文学は役に立つのか』という問いにいかに応答すべきか。役に立つことは計算可能で置換可能な秩序に変換されることだが、ベンヤミンの『経験』概念は有用性とは異なる指針を示している。」「仏英語での『人文学』とドイツ・ヘブライ語での『精神科学』という呼称の差異は何か。ドイツ語とヘブライ語のあいだでの『精神』の翻訳史自体複雑だが、この翻訳に抵抗する何かが精神に残余する。」「文学研究と生命科学はいかに折り合うのか。人文学こそがテクストに即して人間の本性を解き明かすと公言できる時代は過ぎ去り、生命科学こそが人文学にとって代わっているのではないか」、等々。人文学に関する4日間もの長い催事ははじめての経験だったが、得るものは大きかった。