2012年3月 フランス(パリ)

春の陽光のパリ

春の陽光のパリ


3月21日、卒業式の深夜、羽田空港から最終便でパリへ出発。空港では、ひとつずつ滑走を終えたゲートが消灯していき、免税店などもポツポツ閉店していき、最後に残ったゲートで薄明りの下、静かに待つ人々。夜のなかに溶け込んでいく抒情的な雰囲気の中で外国への旅立ち。そして、朝5時に誰もいないパリ空港に到着。これが早朝の着陸第一便。羽田とは逆に、朝が明けてゆく薄明りのなかで入国手続を済ませ、パリ行の列車の中で朝日が差し込んでくる。だいたいパリ市内に入る北駅に差し掛かるあたり。陽光が強くなっていくなか、市内に着いた頃には異国の朝の日常が始まっている。

パリのベルヴィルにて、すでに3週間ほど滞在している学生らと合流。暖かな陽気のパリで9日間の仕事と生活が始まった。2月の豪雪が嘘のように、3月末のフランスでは暖かく晴れた日が続いた。


(移民街のベルヴィルといえばベトナム料理のフォー)

(ソルボンヌ広場前のカフェEcritoire〔筆記用具入れ〕。暑い日に喉を潤すための定番メニュー、ミント水 Menthe à l'eau)


セーヌ河の橋のいたるところに大量の鍵。恋人たちが、「離れ離れにならないように」と願いを込めて鍵をかけて放置したもの。自転車用の巨大な鍵もある。


3月末、復活祭の時期に差し掛かると、生命のシンボルである卵のチョコレートがお菓子屋の店頭に並ぶ。


復活祭関連の音楽イベント「マタイ受難曲」@マドレーヌ寺院。夜11時30まで3時間以上の演奏。合唱隊がいまひとつの迫力で、底冷えする教会は寒かったが、雰囲気は抜群だった。


今年度のアグレシオン試験に関する関連書籍が店頭に並ぶ。哲学試験の主題は「動物」。


モンマルトルのカフェ「ヴェルパーWelper」にてジゼル・ベルクマン氏と打ち合わせ。ベルクマン氏は今年7月に来日し、首都大学東京を皮切りに日本各地で6本の巡回講演をおこなう。


リュクサンブール公園前のカフェ「ロトンド」で詩人ミシェル・ドゥギー氏にお会いした。彼は4月下旬刊行の新著『エコロジック(環境論理)』の見本を持参(Michel Deguy, Écologiques, Hermann, 2012)。冒頭に詩「マグニチュード」(『ろうそくの炎がささやく言葉』所収)が配され、東日本大震災に関する章になっている。人間とは太陽のもとで言語によって生き、死んでいく存在であるという、三重の有限性(太陽、死、言語)を共鳴させながら、人間中心主義とは異なる「環境論理」が探究されている。大統領候補の「緑の党」エヴァ・ジョリにも献本して読んでもらうと意気込んでいた。


首都大学東京とレンヌ第二大学の交換留学協定を結ぶために、3月28日、日帰りでレンヌを訪れた。パリからTGVで二時間のレンヌは治安のよい落ち着いた雰囲気の小都市。レンヌ第二大学は学生が留学するには素晴らしい大学だ。国際交流課長と副課長、語学学校責任者と和やかに面談をして、学生寮などを案内してもらう。その後、地下鉄で市内に出て、ブルターニュ風レストランで会食。これでレンヌ側は協定に署名する最終段階となった。これで2012年冬の選抜、2013年度秋からの留学交換が具体的かつ現実的なものとなった。

パリでの学術的活動

パリでの学術的活動


国際哲学コレージュでのセミナー開催は今年で二年目。昨年同様、パリ批評研究センターの教室を借りて実施された。3月26日、第一回目「哲学の無償性 知性の平等」は馬場智一氏(パリ第四大学)とHye-Young Kyung氏(パリ第八大学)にコメントをお願いした(約30名の参加)。29日の第二回目は、佐藤嘉幸氏(筑波大学)に発表「新自由主義体制下の教育」をお願いした(約20名の参加)。





高橋哲哉『靖国問題』が仏訳されたのを機に、訳者のアルノー・ナンタ氏の発表にコメント役で参加した。

靖国神社が敵と味方の死を選別し、顕彰する近代的な国家装置としていかに機能してきたのか、フランスの学生に歴史的背景や問題の本質を説明するのは簡単ではない。「靖国での「英霊」供養に仏教的な弔いの思想はどの程度影響しているのか」「病気や事故での死者と比較して、戦争による死者の方がより悲劇的に解釈されるのだろうか」といった質問が出た。ナンタ氏はさらに、フランスのアルジェリア植民地政策に関する歴史論争と比較することで学生の理解をうながした。


3月28日の夜、ジャン=リュック・ナンシーに関する論集『外の形象』の出版記念イベントが、マレ地区付近の素敵な小書店Michèle Ignazi(17 rue de Jouy, 75004 Paris)でおこなわれた。これは2009年に、国際哲学コレージュとソルボンヌ大学の共催でパリで実施されたシンポの記録で、日本からは私と馬場智一氏が寄稿している。シンポの企画当初、ナンシーはいろいろと注文を付けたという。ナンシー論の発表を並べるのではなく、彼の思想を起点として共同作業を開始するような会にすること。大御所研究者ではなく、まだ博士論文を書いていない者も含めて若手の発表を重視すること。そして、ナンシー思想の世界的な広がりと対話を確認するためにも国際性を考慮すること、である。