2009年5月 フランス(パリ)

パリ第8大学40周年記念シンポジウム

パリ第8大学40周年記念シンポジウム(2009.05.13)


2009年5月11-14日、パリ第8大学の40周年記念シンポジウム「グローバル化時代の大学、卓越性のための競争」が開催されている。

パリ第8大学は五月革命の余熱のなか、1969年に「実験大学センター」としてパリ郊外のヴァンセンヌに創設された。教員と学生の民主的な関係、大学と社会の実践的な関係を積極的に問い直そうとした画期的な大学である。映画、造形芸術、ダンス、演劇、精神分析、都市論、メディア論などの学科がはじめて導入されたのはパリ第8大学であり、また、領域横断的な研究教育が試みられた最初の大学でもある。発展途上国からの留学生を積極的に受け入れた点でも画期的だった(その写真記録集はVincennes : Une aventure de la pensée critique , Flammarion, 2009)。

そうしたパリ第8大学の創設理念に立ち返りながら、大学の今日的意義を問い直そうというのが今回の催事の趣旨である。世界各地の大学で教鞭をとっている同大学の卒業生を主な参加者としているため、実に国際色豊かなシンポジウムとなっている。また、「大学と労働の世界」と題して、労働組合の代表者と討議するセッションが組まれているのは興味深い。


(封鎖されたエレベーター)


大学の問題といえば、ちょうど、2月からフランス全土で大規模な抗議運動が継続され、長期化している。資金や運営をめぐる大学の自律化、教員の身分の不安定化、教員ポストの削減、競争的な評価制度の導入など、政府による一連の改革に抗議して、授業を停止してストライキをおこない、街路でのデモ行進がおこなわれているのだった。


(壁一面にボール紙が貼られ、メッセージが記される。右端は大学改革を説明する図式。「資本主義」→「新自由主義」→「ボローニャ・プロセス」→「大学の自由と責任法」→「修士課程の整備:教員-研究者の身分改革」→「ゼネスト」)


(総会。学生と教師による自発的な運営で、この日は200名ほどが集まる。政治情勢の確認、病院関係者と合同で実施される今度のデモ行進の日程と集合場所の確認、学期末ストの結果、成績評価や試験はどうなるのかに関する議論など)

パリ第8大学の現学長は若干40歳の法学者Pascal Binczakである。開会の辞での彼の言葉は印象的だった。「大学とグローバル化は知の普遍的な伝達という点で理想的な関係を示す。しかし、グローバル資本主義の競争主義によって、とりわけ1999年のボローニャ宣言以降、この夢は悪夢となった」。現在の大学改革では(日本の独立行政法人化と同様に)学長に権限を集約したトップダウン式の統治が称揚されているが、Binczakは早い時期から改革に反対し、学長に過度の権限をもたせてはならないと主張しているという。


(左から2番目が若干40歳の法学者Pascal Binczak学長)

シンポジウムは9つのアトリエに分かれる――「大学のグローバル化と国際化」「知識基盤社会」「言語とグローバル化」「自律」「大学と批判的思考」「評価―誰が何を?いかにして?いかなる目的で?」「領域横断性」「職業教育」「大学とその領域」。各アトリエでは各国の大学の諸問題が報告され、活発な議論がおこなわれた。


孤独の雑錯―Intersections of/at Paris

孤独の雑錯―Intersections of/at Paris(2009.05.14)


孤独にはいったいいくつの種類の孤独があるのだろうか。パリに留学していた時に、その後パリに一時滞在する度に浮かんでくる問いだ。

「美には傷以外の起源はない。どんなひともおのれのうちに保持し保存している傷、特異な、ひとによって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、そのひとが世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためにそこへと退却するあの傷以外には。」――ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』



「孤独」は客観的な状態ではなく、あくまでも反省的なものだ。孤独とはたんに「独りでいること」ではなく、「独りでいると感じること」であり、例えば、ひとは都会の雑踏のなかで孤独を感じたり、孤独に振る舞ったりする。周囲から意図的に距離をとる「孤高」もあれば、周囲から排除された「孤立」もあるだろう。雑駁な個人的印象でしかないのだが、パリの街では人々がさまざまな種類の孤独に身を曝し、互いが言葉を交わし、また過ぎ去っていくように感じられる。そして、日常生活のなかでしばしば感服するのだが、この孤独は他人に対する無関心を意味しない。電車やバスのなかで高齢者や幼児には必ず誰かが席を譲る。パン屋や肉屋、八百屋で行列しているとき、カフェやレストランで隣接した客のあいだで思わず談笑が始まる。社会問題に異議申し立てをおこなうデモ隊が街路を通ると賛同する場合には沿道から連帯の声が送られる。さまざまな類の孤独の雑多な重畳がパリそのものであるように感じられるのだ。

今回パリに出発する前にUTCPの事務所で小林氏、中島氏と談話した話題は「人文学における孤独」だった。自然科学とは異なり、人文科学研究においては共同作業は必ずしも必要とはされない。人文学は人間の精神活動を個々の人間が問い直す反省的な営みであり、ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独が人文学の基本をなす。むしろさまざまな類の孤独を保持することによって、人文学の研究成果は蓄積されてきたとさえ言える。ところで、パリが西欧における知の力動的な中心地であり続けてきたのは、パリがさまざまな国や地域からやって来た人々の孤独を交錯させる要所であるからだというのは言い過ぎだろうか。


(市役所前広場)

Intersection : Tokyo – Paris – Ithaca

昨年夏、7人の関係者にパリでインタヴュー取材した記録をもとに、ジャック・デリダらが創設した国際哲学コレージュに関するドキュメンタリー映画を現在製作している。

効率化や収益性が重要視されるこのグローバル資本主義の時代に、哲学や人文学がなぜ必要なのか、どのような制度で存続させるべきなのか、といった本質的な問いを、国際哲学コレージュの独創的な研究教育活動に即して聞いてきた。また、デリダが「国際哲学コレージュ」をどのような目的で創設したのか、その今日的意義は何か、についても問うてきた。

初秋にコーネル大学に招聘されていることもあり、アメリカ各地での上映を企画しているのだが、友人の紹介で同大学比較文学科のAnne Berger氏に相談をもちかけている。Berger氏はデリダの脱構築思想に深い理解をもつ文学研究者であるからだ。また、彼女は国際哲学コレージュとは創設時から関係の深いエレーヌ・シクスーの長女である。


(Anne Berger氏 パリ第8大学40周年記念シンポジウムにて)

英語字幕の仕事を引き受けてくれる人を探していたところ、パリ第8大学の院生・河野年宏さんがゼミの友人4人と一緒に引き受けてくれるという。大変ありがたい話だと喜んでいると、彼女らはパリ第8大学ジェンダー学科でAnne Berger氏のゼミ生であるという。Berger氏はパリ第8大学の職を兼任し、イサカとパリを往復しているらしい。彼女らのなかにはコーネル大学からの留学生も含まれており、秋には帰国するので現地での上映まで一緒に手伝ってくれることになった。

同じ人文学研究者である以上、字幕作業を仕事として依頼するビジネスライクな関係で済ませたくはない。研究者である彼女らの見解や思想も共同作業の形で反映させた作品に仕上げたい。パリに到着した日の夜に会を設定し、さっそくデモ版を観てもらい、議論をおこなった。大学と資本主義社会の関係、人文学の危機、エリート主義など、さまざまな問題意識を彼女らと共有することができたことがとても喜ばしく感じられた。


(OphélieさんとMaria Fernandaさん)

「国際哲学コレージュのたんなる紹介ではなく、コレージュの活動を一例として、人文学や哲学の未来を聴衆とともに考える映像作品にしたい。コレージュの熱狂的なファン〔fanatique〕が作成したドキュメンタリー映画という風にはしたくない」――こうした私の趣旨説明に対するオフェリーさんの截然とした応答が印象的だった――「社会的な有用性に配慮する必要はあると思うけど、熱狂的なファンであることがなぜいけないの。fanatiqueというと宗教的な響きがしてたしかに嫌だけど、でも、人文学研究者は自分の研究対象に対してもっと熱狂的なファンであっていい」。

Intersection : Tokyo – Paris – HongKong – Sophia

滞在最終日は、世界各国を駆け巡る二人のブルガリア人研究者と会うことになった。



一人目は、元UTCP研究員で現在、香港城市大学で教鞭をとるデンニッツァ・ガブラコヴァさん。今回はトゥールで開催される多和田葉子のワークショップに参加するために渡仏している。香港の大学界では業績競争が激しく、世界的権威のある学術雑誌に年間数本の論文を発表しなければならないという。日本の学術業界は国内的な市場性があるので、国際的な業績が厳しく問われることはさほどない。だが、香港では最初から国際競争の基準で研究教育が促進されているため、競争が激化するらしい。

二人目は国際哲学コレージュの若き副議長ボワイアン・マンチェフBoyan Manchev。彼はフランス語初の著作L'altération du monde : Pour une esthétique radicale〔世界の他性化―ラディカルな美学のために〕(Nouvelles Editions Lignes)を刊行したばかり。バタイユのラディカルな唯物論から出発して、政治的なものの創造的な地平を提示しようとする野心作だ。



私の第一声は「ボヤン、最近は何回飛行機に乗った?」 彼の応答は「4月は少なくとも15回かな」。彼は基本的に新ブルガリア大学に所属して教鞭をとっているが、パリの国際哲学コレージュ、Bauhaus-Universität Weimarでのセミナーなど、つねにヨーロッパ各地を文字通り「飛びまわり」研究教育活動をおこなっている。この日はイギリスでのシンポジウムを終えてTGVでパリに到着し、国際哲学コレージュの会議の直前に20分ほどだけ話をした。

今回の短い滞在中も実に多くの出会いと交流に恵まれた。ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独のなかにあっても、何処かにいる友との喜悦と信義を絶やさぬようにしたい。距離を介したこうした友愛のうちに研究活動の生命がもっとも瑞々しい仕方で宿るのだから。