2008年10月 アルゼンチン(ブエノス=アイレス、バリローチェ、コルドバ)
もうひとつのEND / Another "END"
東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」
アルゼンチンへの旅の記録(2008年10月)
ブエノスアイレスの熱情
ブエノスアイレスの熱情(2008.10.01)
地球の反対側へと移動するとは、いったい、いかなる経験なのだろうか。小林康夫はパリに滞在した後にアトランタ経由で、中島隆博はニューヨークに滞在した後に、私は東京からダラス経由で彼の地に向かった――「南米のパリ」と呼ばれるブエノスアイレスへ。
ヘブライ人は黄昏の始まる時刻を、
鳩の薄闇、と名付けた
この時刻には闇もまだ足に絡まず、
夜の訪れも、あこがれる
昔の音楽のように、あるいは
なだらかな坂のように感じられらる。――「見知らぬ街」
(サン・マルティン広場。鉄道のレティーロ駅、長距離バスターミナル、ラプラタ河に通じる外港に面しており、ブエノスアイレスへの移動が集約された象徴的な場所。広場にそびえる英国塔はロンドンのビックベンと同じ音で鳴る。)
足もとに広がっている
港は遥かな遠国にあこがれ、
万人を拒まぬ奥深い広場は
死のように、夢のように腕を広げている。――「サン・マルティン広場」
私たちはまず、ブエノスアイレス大学の施設を訪問した。ブエノスアイレス大学は学生数30万人を擁する大学だがいわゆるキャンパスはなく、市内各地に点在している。かつてキャンパスをひとつに統合しようという計画はあったのだが、政情不安のなかで立ち消えていった。アルゼンチンは約30の国立大学があり、私立を合わせると約100程度の大学がある(アルゼンチンの人口は約4000万人)。国立大学は入学試験らしい試験がなく、授業料は無料なので学生数が膨れ上がる。だが、政府は教育に対する予算削減を続けているため、高等教育は深刻な危機に直面しているという。
各学部・学科だけではなく、研究所も市内に点在しており、街角の目立たないビルが大学の施設だったりする。私たちが訪問したフランス・アルゼンチン・センター(Centro Franco Argentino)はフランス関係の学術的催事を担う機関である。年間約30名の研究者を招聘して講演会をおこなったり、主題別の長期プログラムを組んだりしている。2008年度は「現代思想におけるレヴィ=ストロース」(4-11月)、「68年5月――ラテンアメリカとフランスにおける民主主義の記憶」(4-5月)が実施されている。
(ジーノ・ゲルマニ社会科学研究所のセミナー室)
今回の私たちが参加するシンポジウム「大学の哲学 合理性の争い」を企画しているジーノ・ゲルマニ社会科学研究所(Instituto de Investigaciones Gino Germani de la Facultad de Ciencias Sociales)も訪問した。教員200名、若手研究員200名が参与する巨大な研究機関で、教員と若手が10名ほどの単位でチームを組んで研究活動を展開している。ただその参加人数に比して設備は不十分なものであり、ビルの1フロアに研究室やセミナー室、資料室が窮屈そうに並んでいた。
(1858年に創設された市内最古のカフェ・トルトーニ。J.-L.ボルヘス、アルフォンシーナ・ストルニ、ガルシア・ロルカ、オルテガ・Y・ガセットが愛したカフェ。)
空き時間には旧市街地、大聖堂や教会、大統領府、文人カフェなどを訪れた。ブエノスアイレスは想像していた以上にヨーロッパ風の街並みである。初春の街路の樹木は透明感のある緑色に染まり始めていて、街は人々の熱情が溢れていた。歴史が幾層にも堆積した見知らぬ街の熱情を感じながらも、束の間の旅人である私の方はこの街に対する熱情を感じるには至っていない。旅先でその街の熱情に身を任せることと旅人がその地に熱情を抱くことのあいだにはいつもずれがある。だが、本質的に言えば、旅というものは、けっして一致することのないこうした熱情のずれのなかに宿るのだろう。
(旧市街地サン・テルモ地区。かつてタンゴが生まれたこの地区には、現在、骨董品屋が軒を連ねている。)
事物が実質を欠いているのならば、
この稠密なブエノスアイレスが
住民たちの分かちもつ魔力の産み落とした
夢でしかないのならば、
その存在が途方もない危険に晒される
瞬間があるにちがいない。――「夜明け」
※引用はすべてホルヘ・ルイス・ボルヘス『ブエノスアイレスの熱情』より
バリローチェ国際哲学会議第9回「メタ哲学」
バリローチェ国際哲学会議第9回「メタ哲学」(2008.10.04)
2008年10月1-3日、「南米のスイス」と呼称されるバリローチェで国際哲学会議第9回「メタ哲学」が開催された。2日にUTCPセッション「アジア的思考の複数の可能性――もうひとつのメタ哲学」が設けられ、小林康夫、中島隆博、西山雄二が発表をおこなった(司会:フランシスコ・ナイシュタット)。
バリローチェはブエノスアイレスから飛行機で南東に2時間、チリとの国境沿いにある湖畔の町である。2000-3000m級のアンデスの山々に囲まれ、付近には湖が点在する美しい町で、実際、スイスなどからの移民の手によって街の風景はスイス流に装飾されている。バリローチェは「風の大地」南部パタゴニア地方に属しており、都会のビルなどの人為物に遮られることなく、生々しい冷たい風が自然の中から悠然と吹きつけてくるのが感じられる。また歴史をひも解くと、第二次世界大戦後、アルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下で元ナチス党員(アイヒマンなど)の主な亡命先であったが、辺境のバリローチェはその隠れ家のひとつだった。
原子力研究センターのバリローチェ財団の主催で隔年で開催されるこの国際哲学会議は今回で9回目を数える。最初は分析哲学系が中心だったが、次第に大陸哲学の色も強くなり、300名ほどが発表する大規模な会となった。私たちがアジアからの初の参加者で約40名ほどの聴衆が来てくれて、地元TV局も撮影に来ていた。
まず、小林康夫が「メタ哲学としての仏教の可能性」と題して、東アジアにおいて哲学を実践するという立場からメタ哲学の可能性を提示した。彼は、原始仏教における実存からの退隠の実践を、西洋哲学のひとつの枠組みをなす終末論と対置する。意味で構成された世界からの離脱を目指す仏陀の教えは、脱実存の「非実践的な」実践とでも言うべきものである。それは存在でも非存在でもない「空」として世界を思考すことでその「新たな終点」を導き出す。こうした実践こそが、現代の資本や技術の拡張(人類の歴史的運動の総体)を、その究極的な名や意味を保留したまま脱構築するのではないか、と小林は提言した。
次に、中島隆博は発表「哲学としての中国哲学史」において、二人の近代中国哲学者・胡適と馮友蘭の対比を通じて「中国哲学史」の意義を批判的な仕方で考察した。西洋哲学との対決から生まれたアジアの近代哲学は、哲学以上のものとして、あるいは、哲学ならざるものとして、すなわち「メタ哲学」として自己規定するという宿命を負った。歴史を欠いた哲学は存在せず、例えば、中国哲学史を創出することは哲学それ自体として必要とされる。一方で、胡適は老子の読解を通じてロゴスに対する歴史的意識を、すなわち、中国における哲学の内在的起源を見出そうとした。他方で、馮友蘭は胡適を批判して儒教を哲学的起源とする。つまり、ソクラテスとプラトンの序列のように、孔子と荀子あるいは老子の時間序列的関係を設定することで、別の西洋哲学史を描こうとしたのだ。哲学の歴史的自己意識と西洋哲学史の別の様式とのあいだで、中国哲学は自己規定の問いに直面し続けているのである。
そして、西山雄二は「田辺元における種の論理と供犠の問い」と題して供犠と共同体の問いを論じた。田辺は種の論理によって自由主義的な個人と全体主義的な民族の双方を弁証法的に超克しようとした。種は普遍と個別を区別しながら統一する絶対的な否定性として規定され、それゆえ、田辺の弁証法は絶対的な無をその根底とする絶対媒介による絶対弁証法である。種の論理は実体的なナショナリズムと対立するものだが、しかし、その死復活の実践において共同体と供犠のアポリアを孕む。西洋における供犠の独創的な原型はソクラテスとキリストのそれである。両者の供犠は自己供犠であり、唯一的であり、それゆえあらゆる供犠の存在論的かつ神学的な本質をなすからである。これに対して、田辺における絶対的な無(種)を介した死復活は供犠の範例的な形象を必要としない。共同体の問いはこうした範例的な供犠と範例なき供犠のあいだで検討される必要がある。
さて、8月に韓国で参加した世界哲学会議や今回のような国際会議は、学術的催事としてどのような意義を有するのだろうか。たしかに、厳密な意味での学会とは異なり、総題を設定しているものの各発表は総花的で全体の統一性は希薄だ。また、学会紀要誌への論文掲載を目指して精度の高い発表にしのぎを削るというよりも、むしろ、いろいろな国のさまざまな分野の発表をお互いに聞こうと言う「お祭り」的で「見世物市」的な雰囲気が強い。
ただ、敷居の高い専門的な学会とは異なり、こうした国際的な催事には学部学生含めて一般の人が参加しやすい。実際、世界哲学会議では学部生がボランティアとして運営に関わり、発表を聞いていたし、今回も学部学生50名ほどがはるばるこの辺境の地まで足を運んでいた。それはこうした催事が過度に専門家的でも、中途半端に一般的でもないからだろう。私が交流した範囲での感想だが、韓国でもアルゼンチンでも学部学生がこうした催事に積極的に参加していることはきわめて印象的であり、また、彼らの知的好奇心は清々しいものだった。
(バリローチェ国際哲学会議に参加したブエノスアイレス大学の学部学生たちと)
私たちUTCPの学術的催事はあらゆる人に無料で開かれており、過度に専門家的でも過度に一般的でもない水準が設定されている。だが、実際のところ、院生の参加はこちらが期待するよりも少なく、学部学生の参加はほとんどない。「あれは大学院生向けの催事だから」「専門的だから」「通訳なしの英語は聞き取れないから」といった理由があるのだろう。また、私たちUTCPとしても、万全の準備をして、十分に告知をおこない、魅力的な催事を開催するに至っていないのだろう。ただしかし、入門的催事と専門家的催事――そもそも両者の区別は曖昧だ――の橋渡しをなす学術的催事はきわめて重要であり、とくに若い世代に学問への実践的参加の機会が与えられることは必要である。
3日、バリローチェの国際哲学会議は無事に閉幕し、最終日の夜は街中のレストランでタンゴ・ショーを聞きながら会食となった。だが、食事が終わった真夜中頃、雰囲気が一転する。フロア全体を貸し切って、75歳の大会事務局長をも含めて、全員でタンゴ・ダンス・パーティーが始まったのだ。アルゼンチンとチリの国境沿いのこの美しい湖畔の町で、哲学者たちの熱情的な舞踏はさらに深夜まで続くのだった。
四循環――1918年のコルドバ大学
四循環――1918年のコルドバ大学(2008.10.06)
ブエノスアイレスから北に700キロ離れた古都コルドバに取材にいくため、朝一番の飛行機に乗り込んだ。
(ラプラタ河の夜明け)
海は盲人のように孤独である。
海は私には読み解けない古代語である。
水底の夜明けは慎ましやかな白壁になり、
その果てから煙のような光が生まれる。――ボルヘス「船旅」
今回の取材対象はコルドバ大学の歴史である。1613年にイエズス会によって創設されたコルドバ大学はラテン・アメリカで二番目に古い大学、アルゼンチン最古の大学である。この大学は最終的には1881年に国立大学として改組された。ブエノスアイレス大学およびコルドバ大学で学長を務めた国会議員フランシスコ・デリッチ氏にインタヴューをおこなった。
(コルドバ大学の回廊)
2008年の今年は、アルゼンチンの高等教育における歴史的な出来事、1918年のコルドバ大学改革の90周年にあたる。イエズス会が創設したコルドバ大学はかつて、聖職者の養成や上流階級の子弟の教育のために機能していた。19世紀末、ヨーロッパから大量の移民がアルゼンチンに移住するのだが、その第二世代は社会的地位を獲得するために高等教育の機会を求め、保守的で貴族主義的なコルドバ大学の在り方に反発を強めていく。
(法学部の建物。17世紀の石柱部分と近代的なビルとの融合。)
学生たちは大学の民主化を求めて、いかなる政治的介入をも受けない大学自治の確立、学術研究の近代化(カリキュラムの見直しなど)、あらゆる学生に教育の機会均等を保障するための授業料の無償化、研究教育の世俗化を要求した。とりわけ、画期的だったのは、共同統治の提案である。これは教師、学生、卒業生が平等に大学の要職の選出に参加するという大学の民主的統治の原理である。大学にもっとも安定的な関係をもつ教員がつねに大多数を占めることという原則が保持され、例えば、大学評議会が教師側8名、学生側6名、卒業生1名で構成され、役職人事の選出などがおこなわれる。卒業生もこの大学運営に参与できるとする点が興味深く、社会と大学の接点が配慮されているといえる。
(大学前の街路では学生による作品展示、演劇上映がおこなわれていた)
1918年、学生たちはこれらの要求を掲げてデモをおこない、大学を占拠し、警察や国軍まで出動する出来事となった。最終的には世論の後押しを受けて、学生の要求が受け入れられる形で大学改革が進められ、その影響はペルーやチリなど南米諸国全体に広がっていった。教師、学生、卒業生による大学運営の原則は今なお保持されている。
また、1969年にはパリの68年5月革命の影響を受けて、コルドバ大学の学生と労働者による反政府運動が勃発する。多数の犠牲者を出しながらも、彼らは人権無視の軍事政権に対して異議申し立てを貫き、ついに大統領を退陣に追い込んだのだった。ちなみに、パリの68年5月では「禁止することを禁止する」というスローガンが叫ばれたが、これと同じ表現が1918年のコルドバ大学の改革の際に叫ばれていたという。
(大学に隣接するアルゼンチン最古のラ・コンパーニャ・ヘスス教会。12月の年度終了時には、聖職者と教師によってセレモニーが開催される。)
ボルヘスが「四循環」(『群虎黄金』)において寓意的に示したところでは、物語には四つの種類しかない。まず、もっとも古い物語として、勇敢な男たちが守備する強大な都市の物語が挙げられる。彼らはやがて都市が剣と炎に屈服することを承知の上で戦いを続ける。次は、先の物語と関係するもので、オデュッセウス譚のような帰還の物語である。その変奏として第三に、遠く彼方へと向かう探求の物語がある。最後は、キリストのように、神が犠牲になる物語であり、この物語は先の三つの物語とは異質な次元で語られるようにみえる。「物語は四種類ある。われわれは残された時間、それらの物語をあれこれ変奏しながら語っていくことになるだろう」。
現在の大学もまた、保守、帰還、探求、犠牲という四つの物語のあいだを循環する。大学における研究教育活動は無条件的な真実の探求をその根本原理とする。こうした学問の無条件性に即して大学は資本主義社会の余白として機能し、知的好奇心を絶やさぬ人々が帰還するべき場所をなす。だが、現在、大学制度は社会‐経済的な論理にすでに屈しており、この現実を承知した上で、私たちはなお、真理探究の独立性を守備しようとする。私はインタヴューの最後に、デリッチ氏に「現在の大学において犠牲にしてはいけないものは何ですか」と問うてみた。彼の返答は「民主性と自由が学術の探求と調和した在り方」だった。
(コルドバ大学元学長のフランシスコ・デリッチ氏と)
コルドバ大学の民主的改革から90年――コルドバ大学の歴史性と今日の大学の諸問題をめぐって、明日、シンポジウム「大学の哲学 合理性の争い」が国立図書館で開催され、小林康夫と私が参加する。シンポジウムを通じて、大学をめぐる何らかの「物語」が紡ぎ出されるのではないかと期待している。
(現在は、市の南方にコルドバ大学の新キャンパスが創設されて、法学部を除くすべての学部学科が集約されている。社会に対する大学の開放という理念の下で、キャンパスには壁や塀はなく、誰もが大学の敷地内に入ることができる。写真は学生会館に掲示された「大学改革90年 1918‐2008」のポスター。)
国際シンポジウム「大学の哲学 合理性の争い」
国際シンポジウム「大学の哲学 合理性の争い」(2008.10.07)
2008年10月6-7日、ブエノスアイレス大学と国際哲学コレージュ、UTCP、カナダ大使館文化部の共催で、国際シンポジウム「大学の哲学 合理性の争い」がアルゼンチン国立図書館で開催された。
今回のシンポジウムの趣旨は、コルドバの1918年の大学改革から90年、68年5月革命から40年という節目に、大学に対する批判的思考を紡ぎ出すことである。小林康夫と私はパトリス・ヴェルムラン氏(ブエノスアイレス大学フランス・アルゼンチン・センター)とともに「現代の大学と人文学の未来」というパネル・セッションを組んだ。
私たちのセッションでは、まず、西山雄二が、人文学の危機は逆説的にも人文学の過剰さとともに進行するという現状分析をおこなった。従来の学科が再編されてカルチュラル・スタディーズなどの領域横断的な研究教育活動が推奨されているが、それは高度資本主義における価値の多様化に即した傾向といえるだろう。また、韓国の「スユ+ノモ」の挑戦を紹介しつつ、大学制度の周辺や余白で創造される研究教育の可能性に触れた。重要なことは、大学か社会かといった二分法を立てることでも、また逆に、大学の公共空間は社会‐経済の論理に覆い尽くされてしまったと諦観することでもないのである。
次に、ヴェルムラン氏は、フランスにおけるサルコジ政権の大学改革をとり上げ、自由と責任、サーヴィスと競争という枠組みのなかに大学の現状を位置づけた。また彼は、大学をめぐる哲学的問いは大学の機能に関係するとした。つまり、知の探究(研究)、知の伝達(教育)、知の獲得(職業教育)、知の産出(商品化)、知の教導(市民的教養)といった機能である。こうした機能を社会との関わりにおいて明確に意味づけない限り、大学はつねに改革の対象となる。また、私の発表への応答として、ヴェルムラン氏は、大学の外部と内部という二分法を設定するのではなく、つねに大学制度を抵抗の場として再編し続けることが重要だとした。
最後に、小林康夫は、「体系(システム)の思考」と「人間の思考」という区分をめぐって、人文学の可能性について述べた。「体系の思考」において、脳科学や生物学、物理学などの進展とともに、世界の問いはことごとく解明される。だが、こうした思考に対して、「人間の思考」は人間存在の総体に対する責任の名において、意味の限界を目指し、この限界を語ろうとする。なぜなら、人間は根本的に、存在しないもの、失われたもの、これから生じるもの、不可能なものなど、「すべてを語る」からである。人間からすれば、言語を通じてすべてを(脱)構築しなければならないという点で、この「責任」は特定の事象に対するそれではなく、人間存在の総体に対する責任なのである。
質疑応答の時間にはいくつもの有益な質問をいただいたが、今日の大学にとっての場と責任という問いに議論が集約されていった。たしかにこのセッションでは、大学という伝統的な制度のなかで新たな学問の場を創造するのか、大学の外に大学の名において実験的な試みを創出するのか、といった方向性が確認された。小林氏は、「コルドバ大学のようにかつては宗教的勢力が大学を創設したが、近代において、大学は人間が人間を超克する場として存続している。この根源的な責任を果たす場は、歴史的に見て、やはり大学しかない」と力強く述べた。
(国立図書館の事務室に掲げられたボルヘスの肖像画。彼は旧施設で館長を務めており、現在の近代的な施設では勤務していない。ただ、彼の蔵書は保管されており、現在、資料整理・カタログ化が進められている。彼は書物の本文頁には絶対に書き込みをせず、かならず真っ白な扉裏頁に小さな文字で簡潔に注釈を書き記した。また、その書物の使用言語と同じ言語〔主にスペイン語、英語、仏語、独語〕で注釈を記した。)
バリローチェと国立図書館での発表を終え、これでアルゼンチンの滞在が終わる。最後の夕食の際に小林氏が放った表現が的確で印象的だった。「アルゼンチンは南半球の最果ての国だけど、ここにいると世界の終わりへの入口にいるように感じる。そんなアルゼンチンでボルヘスを読んでみると、彼は暮れ方の作家であることが分かる。世界の限界を描き出そうとした暮れ方の作家、しかも盲目の作家なのだと」。今晩、私たちの飛行機は暮れ方の風景の中でラプラタ河の上空へと飛び立ち、ブエノスアイレスを後にする。
ブエノスアイレス――それは、わたしの訪れたことのない街である。多くの街区と場末の中庭の秘密の中心である。建物の正面の背後に隠れているものである。わたしに敵があるとすれば、その敵である。わたしの詩を読み、うんざりしているひとである(わたしもそのひとりだが)。以前訪れたが忘れた小さな書店である。聞いたこともないのに心打たれる、ミロンガの口笛である。この都市の過去である。この都市の未来、遥かなもの、疎遠なもの、周辺的なもの、きみのものでもわたしのものでもない地区、われわれが愛している未知のものである。――ボルヘス「ブエノスアイレス」
※今回のアルゼンチン滞在に際して尽力していただいたフランシスコ・ナイシュタット氏、ジュディット・ナイドルフ氏に深く感謝いたします。