フランス・ブルガリア滞在記(2025年3月)
西山雄二
西山雄二
2025年3月上旬、東京都立大学の学長裁量経費「「あわい」をめぐる日本とヨーロッパの比較文化研究の双方向的展開」という研究プロジェクトにて、フランスとブルガリアに滞在し、計4つのセミナーを企画・運営した。教員3名、学生・研究員3名がフランス語と英語にて発表をおこなった。
フランス・レンヌ第二大学とは10年来、研究交流をおこない、学生の交換も積み重ねてきた。今回の研究プロジェクトでも、2023年12月に高橋博美先生、2024年7月にカリム・シャハディーブ先生を日本に招聘して講演をしていただいた(その原稿は紀要Limitrophe No. 4および6に掲載)。今回の滞在では、レンヌ第二大学で3月5−6日に二つの連続イベント「あわいの思考」を組んでいただいた。
3月5日は、高橋先生の運営で、若手による2本の発表がおこなわれ、日本語を学習する学生ら40名ほどが集まった。院生・竹内大祐さんは、宮澤賢治における食べる者と食べられる者の関係を論じ、人間と動物の友愛に結実する食べることの倫理を示した。また、研究員・八木悠允さんが「男の娘(おとこのこ)」という文化的現象とその漫画表現をめぐって分析をおこない、性差をめぐる美的判断の錯綜を読み解いた。例年同様、発表後は、フランス人学生複数と日本人学生1名(現在の本学留学生も参加)がグループを組んで、持参したお菓子を食べながら楽しく歓談した。こうした学生同士の交流は両校の交換留学の効果的なプロモーションになっている。
3月6日、シャハディーブ先生の運営で、本学表象文化論の越智雄磨さんが、日本のスペクタクル芸術における技術と自然の関係とその表現効果について講演をおこなった。主に芸術学科の学生らが参加し、2時間の講演と質疑応答は充実した時間だった。越智さんは能から現在のアンドロイドオペラに至るまでの事例を示し、自然と人為(技術)が対立するものではなく、洗練された技術装置こそが自然な表現を効果的に保証することを説明した。
フランスに滞在中は研究資料の調査をおこない、コレージュ・ド・フランスでウイリアム・マルクス先生の授業「いかに読むか」、パリ・ナンテール大学で合田正人先生のセミナー「レヴィナス『存在の彼方』の翻訳をめぐるグラマトロジー」などに参加した。パリでは相変わらず、大学などで魅力的な授業が開かれ、在野でも数多くの学術的なイベントが提供されている。
今回の滞在で痛感したのは物価の高騰である。コロナウイルス感染症拡大とウクライナ戦争で徐々に物価が高くなっていたが、オリンピックを経てさらに一段階上がった気がする。地下鉄の運賃が一律で2,50ユーロ(約400円)にまで引き上げられていたことには驚いた。経済的な面で、若い学生に気軽に留学を勧められる状況ではないと感じた。
(ケバブも8.5ユーロ=1400円と1000円を超えた)
ブルガリアに移動して、3月14日、ソフィア市内の東方言語文化センターにて、「戦後日本の歴史と文学」をおこなった。ソフィア大学(日本学科と文学理論学科)、ブルガリア科学アカデミーの共催である。会場には主に日本学科の学生らが30名ほど詰めかけたが、学部2−4年生のなかにはすでに日本語を流暢に話せる方もいた。院生・宮澤桃子さんは、1960年代の日本文学を再考するべく、ジャン=ポール・サルトルの絶大な影響と人気のもとで、江藤淳や大江健三郎といった男性作家だけでなく、倉橋由美子のような女性作家がいかにその(男性的な)実存思想を創作活動に適用したのかを論じた。
本学日本文学教室の大杉重男さんは、1990年代に高橋哲哉や加藤典洋らが議論した戦後責任論をめぐって、東アジアの戦争と植民地支配への責任のあり方をデリダの幽霊論の視座から再検討し、彼が最新著『日本人の条件』で「東アジア的専制主義」と呼ぶ状況を打開するための視点を示した。
3月15日、ソフィア郊外にある新ブルガリア大学にて、セミナー「Creation, the World: Ends, Beginning」をおこなった。同大学の芸術デザイン学科、哲学・社会学学科の運営で、東京大学とソフィア大学、本学の共同によるものである。現地のボヤン・マンチェフ、ダリン・テネフさんには準備や運営に尽力していただいた。
会場となったのは、ボグダン・ボグダノフ図書館ホールで、階段状の座席が並ぶ実に壮麗な空間である。ボグダン・ボグダノフ(Bogdan Bogdanov, 1940-2016)は戦後ブルガリアの代表的な古典文献学者・翻訳者で、共産主義体制が終結したあと、新たな知的精神を洗練させるべく1991年に初の私立大学・新ブルガリア大学を創設したのだった。ホールには彼の蔵書や遺品などが保管・展示してある。
セミナーでは日本人4名が発表し、ブルガリア人研究者がコメントをするという有機的な構成が組まれた。西山は、嘘の理論と実践をめぐって、その不吉だが創造的な力を網羅的に論じた。髙山花子さんは、ブランショとドゥルーズを援用して、困惑した現代を生きるために、日常生活においてカオスと侵犯をいかに肯定するかを説いた。
山根佑斗さんはジャン=リュック・ナンシーの共同存在論をスペクタクルの視点で読み解き、身体の地平が重要な役割を果たしていることを示した。星野太さんは、創造や革新といった威勢の良いスローガンが学術や芸術活動に必ずしも良い効果をもたらしていない状況を踏まえて、メンテナンスの重要性を説いて、保守主義とは異なる「修復的な人文学」の導入を示した。以上、嘘、カオス、スペクタクル、修復的人文学と異なる主題だったが、ブルガリア側からの有益なコメントと議論のおかげで、全体がうまく絡み合った。
今回のフランス・ブルガリアの滞在も問題なく滞り遂行することができた。参加者のみなさん、現地で運営に協力してくださったみなさん、レンヌ第二大学に留学中の本学学生など、関係者のみなさんに感謝申し上げる次第である。
八木悠允
八木悠允(東京都立大学特別研究員・非常勤講師)
発表報告
私は2025年3月5日にレンヌ第二大学で「「あわい」をめぐる日本とヨーロッパの比較文化研究の双方向的展開」研究の一環として発表機会をいただき、「L'awai est-il ambigu ? : L’esthétique classificatoire de la culture japonaise à travers l’« otoko no ko» et des mangas(あわいは曖昧なものか?:「男の娘」と漫画からみる日本文化の分類的美学)」と題した発表を行った。「男の娘」とは、表面上は女装した男性を指す言葉である。しかし、その発生の歴史的背景や、当事者研究、さらに漫画等の表象を通じて観察するとき、この言葉には「男性でありながら女性になりたい」という矛盾した情熱が込められていることが明らかになる。すなわち、「男の娘」とは単なる自己表現を超えた、男女の「あわい」上での実存を賭した戦略として考察できる。
本発表では並行して、「あわい」概念を肯定的に評価する先行研究に疑問を投げかけた。「あわい」とは、二つの事象の合間に、ある種の調和を見出す眼差しの所産である。二項対立に緊張関係を見出す西洋文化的な眼差しと対照的であるがゆえに、「あわい」はしばしば、日本文化的な概念として肯定的に評価されてきた。しかし、「あわい」という曖昧な領域を命名する行為は必然的に、曖昧な領域をカテゴライズし、ともすれば商業的に消費することにもつながりかねない。たとえば「あわい」のひとつの例として、自宅でも職場でもない「サードプレイス」という場が挙げられる。サードプレイス概念は現代人の癒しの空間として20世紀末から注目されてきた。その結果として、第三の場を標榜するカフェ・チェーンに取り囲まれた現在の社会状況を、「あわい」的感性の横溢と捉えることはもはや難しい。つまり、「あわい」はジャンル化されるやいなや消費され、その曖昧で密やかな「あわい」性を失うことになるのではないか。
この危うさを考察するうえで、消費される「あわい」自体の魅力を考察することは重要であろう。この観点から、本発表では「あわい」消費を「男の娘」に内包される短命の美学と結びつけて論じた。「男の娘」を表象する漫画作品に共通する象徴的場面として、「男性でありながら女性になる」ことを望みながら、その「男性」である肉体の成長(声変わり)によって、思い描く理想の「女性」たりえない現実に直面する悲劇が挙げられる。この場面から「男の娘」たちの情熱を、あらかじめ定められた悲劇的儚さの美学として解釈するとき、比較参照されるべきは性の「あわい」を超越した存在である両性具有的なキャラクターたちである。両性具有のキャラクターは、「男の娘」たち同様にミステリアスな性の体現者として表象される一方で、その生命はさまざまな理由から永遠のものとして描かれることが多い。両者の比較からは、「男の娘」が男女の「あわい」だけでなく、人間的存在と神話的存在の「あわい」にも位置することが明らかとなる。すなわち、「男の娘」とは「男性でありながら女性」という存在であると同時に、永遠の生をもつ両性具有表象の模造ともみなすことができる。「男でありながら娘である」というこの時間性の超越への志向がその名に刻まれた「男の娘」表象は、いずれにせよ、模造に過ぎない。それは「おとこのこ」という読みに込められた自嘲的な響きにもみてとれるだろう。この否定的な側面に着目し、発表者は「男の娘」たちが、性と時間の両義性のはざまに位置する存在として「居心地の悪さ」を体現していると解釈した。見方を変えれば、「男の娘」=「あわい」は居心地の良い場所とは限らないのである。発表で取り上げた「男の娘」たちは、男性でもあり女性でもあるという居心地の悪さ、永遠でありたいが短命であるという悲劇を反転させようともがき、輝き、潰える。そこに美しさを見出すとき、我々は「あわい」に秘められた儚さという、きわめて日本文化の伝統的な精神に接近するのである。
質問と課題
発表に対しては、私が取り上げた作品(志村貴子『放浪息子』、ふみふみこ『ぼくらのへんたい』)に類似する作品についても同様の美学を指摘できるか、また男女の枠を超えた表象としてSF作品との比較は可能か、など鋭い質問を複数いただいた。前者は発表における「男の娘」定義を問うものであり、私が主題を設定した時点で視野が狭くなっていたことを気づかせてくれるものだった。今後はより広汎な資料をもとに「男の娘」表象を考えたい。後者の質問は非常に示唆的である。性と生の改変の欲望として「男の娘」を観察するとき、「男の娘」はSF的な想像力に居場所を求めるのではなく、むしろ現実世界に留まろうとする傾向が発見できる。虚構と現実のあわいとの存在として、「男の娘」は慎重に考察できるだろう。
他発表、今後の展望
二日間にわたって開かれたセミナーでは、発表者と同日には竹内大祐氏(東京都立大学人文科学研究科)による「La frontière (Awai) entre celui qui mange et celui qui est mangé chez Miyazawa Kenji(宮沢賢治における食べる者と食べられる者のあわい)」、翌6日には越智雄磨氏(東京都立大学表象文化論教室准教授)による「La frontière (Awai) entre la technologie et la nature dans les arts du spectacle japonais : du nô à l'opéra cybernétique(日本の舞台芸術における技術と自然のあわい:能からサイバネティック・オペラまで)」が発表された。
竹内氏の発表は食べる・食べられるという双方向的な関係を、宮沢賢治作品の読解を通じて今日的な菜食・肉食思想に接続する野心的な発表であった。ともすれば人類愛として解釈されうる内容が、関係性の枠組みから慎重に論じ上げられた内容であり、哲学を専門とする氏の力量が伝わる発表であった。
越智氏の発表は1時間にわたる充実した発表であり、とりわけ密な参考作品への解説と解釈に耳目を奪われた。特に、私が研究する作家ミシェル・ウエルベックを引用した作品を取り上げてくださっていたり、5日に聴衆に芸術学専攻の学生が多いことを見て、翌日にはアニメのスライドを追加なさるなど、聞き手を意識した柔軟な発表姿勢には多くを学ばせていただいた。セミナー準備となると、自分の発表の形を整えることで頭が一杯になってしまうものだが、とりわけ海外セミナーにおいて重要なのは、発表後の対話がどれだけ充実するかではないかと私は考える。知識や知見を一方通行で伝達する論文とは違い、国際セミナーでは不慣れな外国語での発表をもとに対話を重ねることを通じて、ようやく相互的に内容を噛み砕き、共有することが可能となる。幸い、今回の発表では私を含め三者の発表ではいずれも活発に反応があり、それに対する応答で盛会となった。今後は発表という形式に拘らず、ワークショップなど、より相互的な形で交流を深める形態にしても面白いのではないかと感じた。
パリでの調査
字数の関係から、パリでの調査については簡潔に記す。「あわい」という主題において、文学を専門とする私が関心をもつ領域に、文学創造と読書の二項対立(とその間の「あわい」)が挙げられる。滞在中に開かれたコレージュ・ド・フランスにおけるウィリアム・マルクス氏による講演「いかに読むか」はこの問題への考察を深めるために大変参考になった。
氏は、エレーヌ・カスティーヨ『いま、いかに読むか How to read now』を(特にその政治的な文脈を)批判的に論じながら、読書の非受動的な側面と、しかしそこにある種の規範(スタンリー・フィッシュの用語を使えば解釈共同体における規範であり、これはカスティーヨが批判する白人至上主義的な出版社や、白人リベラル読者が形成する読書の枠組みに妥当するとみなせる)があることを指摘した。「今日において、読書とはコスプレなのだ」というマルクス氏の言葉は、その様相の簡潔な表現である。そのような形式主義的読書から脱却することは可能かどうか、また脱形式化に意義があるかどうかといった点に直接的な回答は示されなかったものの、形式の問題が政治的文脈の上で読者の側から提示され、そこから来るべき創造性を思考することの重要性を説く氏の講演は、二項対立の相互性の場である「あわい」を考える上で非常に示唆的であった。
フランス国立図書館での資料探索の機会が得られたことも非常に大きい。私の研究はやや文献学的側面があり、いくつかの雑誌を参照せねばならないのだが、少しでもマイナーかつ20世紀の雑誌になると、電子化はされておらず、日本で手に入れることは潤沢な資金がない限り不可能に近い。そしてそもそも、同図書館にすら収蔵のない資料も存在し、21世紀になろうとも(むしろ、だからこそ)、資料調査の重要性は高いと改めて感じた。
またパリでは、イギリスのキングストン大学で哲学を学ばれているタスク・ミヤギ氏、パリ第8大学を修了し現在は企業で働きながら在野で人類学研究をなさっている多賀郷人氏と交流した。在外研究者との交流は貴重であり、日本と海外との間の「あわい」で生きる研究者との交流とも呼べるだろう。氏らとの会話で強く感じたことは、海外留学し、生活することのハードルがますます高くなっているということである。それは単純に物価高と円安に起因する。フランスの2025年現在の雇用最低賃金(SMIC)は手取りで1426,30ユーロであり、これが生活する上で最低水準とみなされているわけだが、今回の滞在中の日本のカード使用時の換算レート(169円/1ユーロ)で計算すると、24万円弱になる。留学生はいくつかの奨学金や、公的補助(CAFなど)を得られるとはいえ、この額を毎月用意して数年間滞在するというのは、並大抵の資金力では難しいと考えざるを得ない。特にパリでは、頻繁に利用するメトロの料金の値上がり(2.5ユーロ)も無視できない出費だと感じた。
だがその一方で、東京都立大学からレンヌ第二大学へ交換留学中の田村・金藤両氏は、さまざまな工夫と知恵をこらして無駄な出費を抑えながら、留学生活を楽しんでいる様子を語ってくださった。状況が厳しくなっているのは事実とはいえ、そこで即座の変化を期待できない制度拡充を訴えるだけではなく、お二人のようなたくましく学ぶ姿勢を忘れてはならないと思う。
謝辞
今回の実り多い滞在へ招待してくださったばかりか、数多くの実務的な労を負ってくださった東京都立大学の西山雄二教授と、長年にわたって公私共にお世話になり、今回も素晴らしい機会を用意してくださったレンヌ第二大学の高橋博美助教授にまず心よりお礼申し上げる。私事になるが、私はお二人の長年に渡る東京都立大学・レンヌ第二大学間の交流の最初期に、留学生としてお世話になった。まだ未熟ではあるものの、この国際交流に協力する側として参加できたことは嬉しく、今後も微力ながら貢献していきたい所存である。そして当地で私の拙い発表に耳を傾け、質問をしてくれた学生たちや、病身をおしながらも熱のこもった議論をしてくださったカリム・シャハディーブ助教授にも改めてお礼申し上げたい。最後に、レンヌ滞在ではご自身の発表もあるなか、越智准教授と竹内氏には和やかな歓談に付き合っていただき、研究渡航の雰囲気を和らげていただいた。お二人への感謝もこの場を借りてあらわしたい。
この実り多い滞在を糧に、今後も国際的な「あわい」のなかでさらに研鑽を積み、研究を進めていくことを通じて、公的に還元していく所存である。
竹内大祐
竹内大祐(東京都立大学人文科学研究科)
2025年3月5日、6日にレンヌ第二大学で開催されたセミナー「あわいの思考」について報告する。5日には、報告者による「La frontière (Awai) entre celui qui mange et celui qui est mangé chez Miyazawa Kenji(宮沢賢治における食べる者と食べられる者のあわい)」と、本学客員研究員八木悠允氏による「L'awai est-il ambigu ? : L’esthétique classificatoire de la culture japonaise à travers l'"otoko no ko" et des mangas(あわいは曖昧なものか?:「男の娘」と漫画からみる日本文化の分類的美学)」が発表され、6日には本学表象文化論教室准教授の越智雄磨氏による「La frontière (Awai) entre la technologie et la nature dans les arts du spectacle japonais : du nô à l'opéra cybernétique(日本の舞台芸術における技術と自然のあわい:能からサイバネティック・オペラまで)」が発表された。
報告者の発表は、宮沢賢治の作品における食物連鎖のモチーフに着目し、彼の描き出す「食べる者」と「食べられる者」のあいだの特異な共生関係のうちに「あわい」の要素を見いだそうとするものである。捕食者と非捕食者のあいだに存する残酷な搾取の関係のオルタナティブとして、『なめとこ山の熊』におけるマタギと熊の共同体に注目し、「食べる者」と「食べられる者」のあいだの「あわい」を生きる彼らの友愛を通して、食べることの倫理について問うた。それゆえ本発表は、「あわい」の思考を「菜食主義」や「エコロジー」といったフランスでも広く関心を集めている主題へと接続することを提案するものである。「あわい」の思考や宮沢賢治の作品のもつ射程の広さが、本発表の聴講者のうち一人でも多くの方に伝わっていれば幸いである。
また発表後には、レンヌ第二大学で宮沢賢治を研究しているレナ・シモン氏と交流する機会を得た。彼女はジェームス・マシュー・バリーの『ピーター・パン』と『銀河鉄道の夜』を比較するという独創的な研究をおこなっており、同テーマに関して、2024年7月に東京都立大学で催されたセミナー「日本とヨーロッパにおけるあわい」において発表している。今回の交流では、両国における宮沢賢治の受容や研究について有益な情報交換をおこなうことができた。
パリ滞在中は研究資料の調査・収集をおこなった。国内屈指の学生街カルチエ・ラタンには専門的な学術書を取り扱う書店が多く集まっており、そのどれもが宝の山に思えた。実際にフランスの書店に足を運んでみて感じたのは、日本で盛んに読まれているフランスの哲学者が必ずしも本国で人気を集めているわけではないということであり、その逆に、日本ではあまり注目されず翻訳も少ないような哲学者が盛んに読まれているらしいということである。フランスにおけるヘーゲル哲学の受容史を研究している報告者にとって、こういった現象はきわめて興味深かった。フランスの哲学徒たちがいま何を読んでいるのか、その実情を知る貴重な機会となった。
最後に、今回のフランス滞在を実現するにあたってお力添えいただいた沢山の方々に対して御礼の言葉を申し上げます。まず、経済面、事務手続きの面で本プログラムを支援し、安全かつ円滑な渡航を準備してくださった東京都立大学国際課および文系管理課のみなさまに感謝申し上げます。そして、現地で私たちを歓迎してくださり、セミナーの開催を準備してくださったレンヌ第二大学の高橋博美先生、カリム・シャハディーブ先生に感謝申し上げます。また、私たちを温かく迎え入れ、交流してくださった学生のみなさまにも感謝申し上げます。また、同行メンバーであった八木悠允氏に感謝申し上げます。発表原稿の添削や現地での案内など、様々な手厚いサポートをしていただきました。初めての海外で不安な私にとって、大変心強い存在でした。そして最後に、本プログラムの責任者である西山雄二先生に格別の謝辞を述べさせていだきます。宿やTGVの手配から旅程の作成、現地での案内に至るまで、ありとあらゆるサポートをしてくださいました。私たちの滞在が安全かつ実りあるものとなったのは、西山先生の計り知れないご尽力があってこそです。多くの方々の手助けによって実現した今回の滞在での経験を糧に、よりいっそう研究活動に励んでまいります。
越智雄磨
越智雄磨
2025年3月5日、6日にかけて東京都立大学とレンヌ第二大学が共催したシンポジウム「日本とヨーロッパのあわい」(於:レンヌ第二大学)に参加した。
シンポジウム1日目の3月5日には、本学学部生竹内大祐氏による発表「La frontière (Awai) entre celui qui mange et celui qui est mangé chez Miyazawa Kenji(宮沢賢治作品における食べるものと食べられるもののあわい)」および本学客員研究員である八木悠允氏の発表「L'awai est-il ambigu ? : L'esthétique classificatoire de la culture japonaise à travers l'"otoko no ko et des mangas(あわいは曖昧なものか?:「男の娘」と漫画からみる日本文化の分類的美学)」を聴講した。前者の発表では、宮沢賢治作品における食べるものと食べられるものの関係の中に輪廻という仏教的観念との共鳴が見出され、後者の発表では日本の漫画における性別のあわいの表現の系譜と特異性が考察されていた。この両発表は、聴講者に対して日本の「あわい」という概念が持つ射程の広さを十分に伝えるものだったと言える。両発表後には活発な質疑応答が行われ、レンヌ第二大学で日本語や日本文化を学ぶ学部生や院生の大きな関心を引き寄せていた。
2日目の3月7日には、「La frontière(Awai) entre la technologie et la nature dans les arts du spectacle japonais: du nô à l'opéra cybernétique(日本の舞台芸術における技術と自然のあわい:能からサイバネティック・オペラまで)」と題した講演を行なった。
本講演では、寺田寅彦がかつて「日本人の自然観」(1935)において、西欧と日本の自然観の違い(自然に対して征服か順応かという精神的態度の違い)について論じた例を紹介するとともに、昨今の生態学や哲学で議論される「自然」「技術」「あわい」の概念について概観した上で、古今の日本の舞台芸術に見られる技術と自然のあわいを考察した。
それぞれの舞台作品には、かつて寺田が見出した日本人の自然観が反映されているとみることが可能である。講演で取り上げた一つの例を挙げるならば、世阿弥の能楽論において最良の上演を示す「誠の花」という概念は自然を読む陰陽道の影響を強く受けており、自己と自然、あるいは自己と他性とのあわいを調整、和合する過程においてのみ具現するとされる。また『Mirror』に出演しているアンドロイド・オルタ4は環境情報から動きや音を即興的に生成する仕組みを備えており、その時の自然環境によって行動が変化するという点で世阿弥の和合論との親近性を見出すことが可能であるという考えを講演において示した。
他方で、これらの古今の日本の舞台芸術にみられる能動と受動のあわいにある中動態的な主体のあり方は、花や植物のあり方を新たな哲学的主体のモデルとするエマヌエーレ・コッチャなどの現代の西欧哲学と親和性を持つ可能性があることも指摘した。その観点からみれば、かつて寺田が見出したような西欧と日本の自然観の差異はかつてほど明確なものではないと言える。さらに、オルタ4は声明をChatGPTに読み込ませて生成された歌詞を歌うが、その世界観は西洋の古典オペラに見られるロマン主義的世界観とも調和している事実から、世界的な自然環境の変動に加えて技術(デジタル・ネイチャー)の遍在が加速する現在において、かつて二項対立的に捉えられてきた西欧と日本の関係はあいまいに混じり合う「あわい」を形成し始めているのではないかと考察した。
発表後にはレンヌ第二大学のKarim Charredib准教授から東洋最初のアンドロイドと言われる昭和3年に開発された「学天則」もまた自然法則を読むことを重視して命名されたという事実や、学天則もオルタ4も仏像との外見的類似性があるというコメントを頂いた。また八木研究員からは「mirror(鏡)」という比喩に関して、ミシェル・ウェルベックが述べる必ずしも事実をまっすぐに反射するわけではない「歪んだ鏡」という考えの必要性についてのコメントを頂き、作家が「鏡」の比喩を用いる際に批判的に検討する必要性を示唆して頂いた。また、西山教授からは「全体論」の観点から他者とのあわいを無化するようなコッチャの思想や主体のモデルを批判的に検討する必要もあるというコメントを頂いた。いずれのコメントも研究を今後発展させる上での貴重な示唆として受け止めた。
宮澤桃子
宮澤桃子(日本文学教室博士課程後期1年)
2025年3月14日にソフィア大学(Japanese Studies Department, Literary Theory Department)と東京都立大学が共催したシンポジウムPublic Lectures on Japan’s Post-War History and Literature(於Center for East Languages and Cultures of Sofia University)に参加した。シンポジウムは、はじめに、私が「Rethinking Japanese Literature in the 1960s: With a focus on Yumiko Kurahashi and Jean-Paul Sartre」と題する講演を、次いで指導教授の大杉先生が「The Ghosts of Derrida Haunting Japan: A Study of Japan's Wartime, Colonial, and Postwar Responsibility in East Asia」と題する講演を行った。両講演ともに、戦後の日本文学研究の紹介と自分の研究内容を英語で発表し、現地の学部生、院生、先生方と質疑応答において交流するものであった。
「Rethinking Japanese Literature in the 1960s」と掲げた本講演では、はじめに、戦後の日本文学の様相を簡単に紹介した。戦後の日本文学研究が男性作家を中心としたものであるということ、そして、大江健三郎という特権的な作家を除くと1960年代の日本文学は、手つかずのままであるということを指摘する紹介を行った。
そして、1960年代の日本文学が手つかずのままである原因に、当時、日本で流行していたサルトルの実存主義思想が急速に忘却されたことにあることを述べた。加えて、そこで等閑視されてきた、女性作家の重要性を主張するべく、特に、サルトルを積極的に受容し、独自の文学表現を生みだした倉橋由美子を紹介した。例えば、倉橋は、『どこにもない場所』(1961)において、サルトルにおける男性的な吐き気を、少女の吐き気(および主体の逃亡)として批評的に書き換え、当時日本ではあまり知られていなかった女性性の拒否としての拒食症的表現を創作していた。これは、ジェンダーやセクシュアリティへの問いを含む、先鋭的な文学表現であったことを考察し、それに続けて、最後に、金井美恵子と倉橋との関係も指摘し、1960年代の日本文学の重要性を再考した。
質疑応答において、ダリン・テネフ先生から、倉橋のテクストにおける少女の主体の逃亡という考察の一方で、少女の周りの人間の主体についての考えはあるか、というコメントをいただき、少女を取り巻く男の主体について多角的に考察するが必要があることが分かった。また、日本の文学研究ではあまり触れられない、サルトルやボーヴォワール、第一波、第二波フェミニズムと日本に関する質問、意見を会場全体からいただくことができ、大変有意義な講演となった。-
また、今回は、はじめてのブルガリア滞在であった。空港から首都ソフィアの中心地セルディカまでは、電車で約30分という立地で、交通が非常に便利だった。ヨーロッパ最古の都市の一つであるソフィアは、正教会やカトリック教会、モスクといったさまざまな宗教の建築物が存在感を放つ傍ら、社会主義時代の厳かで威光のある建物も立ち並んでおり、歴史が折り重なった独特の雰囲気を漂わせていた。滞在した期間は、3月であるのに、25度まで気温が上がり、春を飛び越えて初夏のような気候であったため、公園には花が咲き、開放的な心持ちでソフィアを感じることができたが、冬に訪れていたら、全く別の印象だったかもしれないとも感じた。食べ物は、よく知られている通りヨーグルトを使った料理が特徴的だが、生野菜のサラダもよく食べるということは驚きであった。だが、海外で新鮮な生野菜をたくさん食べることができたことは、個人的には大変ありがたかった。
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光栄にもソフィア大学を案内していただき、立派なエントランスや図書館はもちろん、タイムスリップするかのようなエレベーター、最上階にあるソフィア大学の守護神など貴重な場所まで、見学することができ、ソフィア大学の学生目線で、大学を楽しむことができた。日曜日には、動物愛護のデモに遭遇し、犬にたくさん出会えたことも印象的であった。
最後に、ソフィア滞在でご尽力いただいた方々に心からの感謝を記したい。はじめに、本プログラムを支援し、お力添えをしてくださった東京都立大学国際課および文系管理課のみなさまに感謝を申し上げます。そして、本シンポジウムを共催していただき、私たちを喜んで迎えてくださったソフィア大学のゲルガナ・ぺトコヴァ先生とアントン・アンドレエフ先生、日本学科のみなさまにも厚く御礼申し上げます。そして、末筆ではありますが、シンポジウムの司会・進行・通訳、そしてソフィアを案内していただいたダリン・テネフ先生とマルティナ・ネディアルコヴァさん、本プログラムの責任者である西山雄二先生、そして東京から長旅をともにしていただいた指導教授の大杉重男先生、シンポジウムが成功し、有意義な滞在となり、無事に帰国できましたのは、みなさまのご尽力賜れたことにあると存じます。心から感謝するとともに、改めてありがたく御礼申し上げます。今回の経験を糧に、今後も積極的に国際的な研究発表や論文執筆に挑戦し、さまざまな国の研究者と交流ができるよう、研究に励む所存です。
大杉重男
大杉重男
2025年3月14日、ブルガリア・ソフィア大学にて開催されたセミナー“Public Lectures on Japan’s Post War History and Literature”に参加し、“The Ghosts of Derrida Haunting Japan;A Study of Japan's War, Colonial, and Postwar Responsibility in East Asia”というタイトルで発表を行った。この発表は去年2024年に出版した『日本人の条件―東アジア的専制主義批判』の第一章の内容を再検討し、更に展開した内容を持っている。英語による読み上げ原稿の作成には、ブルガリア科学アカデミーのマルティナ・ネディアルコヴァ氏の助力をいただいた。
発表では日本の戦争責任・植民地責任・戦後責任をめぐって1990年代に展開された高橋哲哉の言説(『戦後責任論』)を批判的に検討し、それがどのような構造的盲点を持っていたのかを、高橋が暗黙に依拠していたジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』や、当時高橋が論争相手としていた加藤典洋の『敗戦後論』との比較において、明らかにすることを試みた。たとえば高橋は、アジアの戦争被害者たちの生きた声を、『ハムレット』の父の亡霊の声に類比し、現代日本人をハムレットに比すが、ハムレットがアジアの戦争被害者たちの末裔である可能性、父の亡霊が昭和天皇やその指揮下で戦死した日本兵である可能性、あるいは現代日本人がハムレットの父を殺したクローディアスの末裔である可能性を見ようとはしない。そこには現代日本人にとって「父」とは誰であるのかについての根本的な誤認がある。また高橋は、生き延びて証言する戦争被害者を亡霊に喩えることで生者と死者を取り違えてもいる。
こうした誤認や取り違えは、高橋の言説において偶然的なものではなく構造的なものである。高橋は加藤との論争において「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道」を模索する加藤をアンティゴネーに喩えて批判するが、慰安婦像をめぐる運動も同様にアンティゴネーに喩えることができるにもかかわらず、そうしようとはしない。そこから見えてくるのは、高橋が日本と東アジアとの境界設定を批判しながら同時にそれを強化してしまう自己撞着である。そのことはデリダがマルクスの亡霊に応答したのに対して、高橋が、冷戦後も残る中国や北朝鮮のまだ生きているマルクス主義を見ないふりをし、それを思考することなく戦争責任を考えようとしたために生じている。この発表では、高橋が精神分析的に回避したデリダの亡霊の論理を改めて日本の状況に接続することを試み、ポスト冷戦後の東アジアを「東アジア的専制主義」という概念によって捉え直し、戦争責任問題を真に解決するための条件として「東アジア同時革命」(日本の天皇制と北朝鮮・中国の共産党独裁体制の同時的廃止)の可能性を提示した。
発表に対しては、さまざな質問や意見があり、私の考えの及ばなかった点についても多く教えられたが、大筋において私の研究が重要な問題提起を示していることは、認められたと考えている。ソフィア大学では暖かく歓待していただき、感謝に堪えない。