巡回上映の記録 2010年10-12月

2010/10/23 明治大学(合田正人、管啓次郎、岩野卓司、桜井直文)


2010/10/23 明治大学(合田正人、管啓次郎、岩野卓司、桜井直文)




2010年10月23日、明治大学駿河台校舎にて、合田正人、管啓次郎、岩野卓司、桜井直文各氏(明治大学)ともに上映会がおこなわれた(主催:明治大学教養デザイン研究科・文学研究科。約120名の参加)。事前の情宣や発表準備は実に念入りで、討論会はこれまでにないほど濃密な内容となった。専門的な議論から明治大学の現状に即した大学論・教育論に至るまで、2時間30分があっという間で時間延長が望まれるところだった。主催者や関係者、学生のみなさんには深く感謝する次第である。



桜井直文氏は、「本作ではコレージュの現実ではなく、理念や理想が描き出されている。しかし、理念さえもなくなってしまった場合、大学の存在意義はどうなるのだろうか」と独特な深刻な声調で問題提起をした。本作が提起する大学の無条件について、哲学、無償性、公開性という鍵語が挙げられた。まず、哲学はたんなる知識の伝達ではなく、活動でもある。つまり、答えではなく、問いを探求する営みである。また、無償性は学びの目的と関係する。国家のため、大学のため、就職のために学ぶのではない。「~のために」という目的を排したところに学びの本義があるのではないか。



最後に桜井氏は印象的な事例をあげた。脱学校化社会で知られるイヴァン・イリイチは、自らメキシコのクエルナバカに「国際文化形成センター」を設立した。時を経て、学校の理念が薄れ、運営が自己目的化したときに、イリイチは周囲の反対を押し切って、自ら学校を閉校したという。創設者とその制度の理念と現実にかんする興味深い事例だ。

岩野卓司氏は、哲学の無条件性について話を展開した。デリダは『条件なき大学』において、〈すべてを公的に言う権利〉に大学の無条件的な自由をみる。ただ、そうした無条件性は歴史上の事実ではなく、交渉されるべきものである。



その点で、岩野氏は大学における哲学の重要性を強調。その存続のために、哲学はその固有な自己規定をおこなう。例えば、技術が進展する社会において、哲学の倫理的基礎づけといった固有性を強調するように。しかし、そうした仕方での哲学の存続は逆に、哲学の忘却ではないだろうか。なぜなら、哲学とは哲学自身の規定性を問い直す点にあるからだ。この意味で、シェリングが言うように、哲学は大学のなかに固有の場所をもたないのではないか。いまだ場所をもたないものと関わるかぎりにおいて、私たちはすでに哲学に触発されているのではないか。

合田正人氏は、20世紀思想史を自由自在に参照しながら、これまで誰も指摘しなかった本質的な論点を次々と列挙し、会場を圧倒した。

1974年の教育改革によって高校の哲学教育が削減されそうになると、デリダらはGREPH(哲学教育研究グループ)を結成して理論的・実践的に抵抗した。このいわゆるアビ改革は大学改革ではなく小中高校の改革で、中等―高等教育の連続性をめぐって運動が起きたのだった。GREPHを通じて、デリダは前世代の重要人物シャトレとジャンケレヴィッチと協同した点も貴重で、哲学教育運動をめぐる豊かなドラマがここにはある。

大学外での試みをめぐって、アランの教育論の重要性、ドレフュス事件以来の民衆大学の隆盛、ジャン・ヴァールのコレージュ・フィロゾフィックの歴史、ポンティニーからスリジーに至る討論会の存在、パトチュカによる移動大学の形態などが列挙された。



合田氏はしかし、大学制度の外の在野的活動をひたすら肯定するのではなく、むしろ制度の思想的射程をさらに掘り下げていく。institutionは語源的に「内部に―立つこと」だが、この内存在性は、ハイデガー的な現存在の実存的構造に関わる。つまり、ある環境の内部に存在しつつも、外部に超出する点で、制度とは内/外の両義性そのものなのである。そうなると、デリダが「哲学への権利」と言うとき、ブランショの「文学と死への権利」が踏まえられているはずだ。ある限界においてこそ制度や権利が本質的に問われるのである。

デリダが権利の脱構築可能性を論じるとき、他方で正義の脱構築不可能性が考慮されている。研究教育における哲学への権利が脱構築されるとき、正義の問いは変容しないのだろうか。合田氏は最後に、本作から思考できるであろうデリダの最深部をえぐり出した。

管啓次郎氏は、哲学研究者ではないのだがと断りつつ、しかし、哲学を知っていようがいまいが、哲学とは気が付いたらすでに巻き込まれてしまっているものである、と話を切り出した。明治大学の現状を考慮しつつ、艶のある的確な表現を駆使して言葉を紡ぎ出した。



管氏が反発するのは、学生をカスタマーとみなす現在の風潮である。本来、学びは無償的な行為であって、顧客をあらかじめ想定するような経済的活動ではない。その上でソロー『森の生活』が経済に関する記述で始まっていることの重要性が示唆される。高額な授業料を支払って大学に通う意義と、在野の知識人との対話から無償で学ぶことの有効性とはいかに異なるのか。「哲学とは生活経済学と同義である」という引用箇所が印象的だった。

大学における異なる集団同士の連結はいかにして可能だろうか。管氏は新領域創造の大学院構想に関与している経験に即して、その実践例を語った。大学院と高校という意外な連結の有効性、12人という定員数の意義などが興味深い例だった。最後に、学生が台湾の学生と共同作成した映像作品「Passing」が映写され、国際的な協同の示唆的な例が提示された。

10月23日の明治大学でのアンケートから、いくつかを紹介させてください。

「企業のなかにも哲学が息づいてくれるようになればよい。その方が、企業も多様性を受け入れて、競争力をつけられるのではないか。批判力を哲学は私たちに与えてくれるのだから。」

「一般に哲学を社会からなくすべきではないというインテリ〔討論者5名〕の意見は尊大すぎる。やはり人文学は「やりたい」という一心でなされるべき。」

「日本の教育に対する危機感がまだまだ希薄であると感じられました。残念です。すでに「待ったなし」の状況にまで、大学も、初等・中等教育の現場も追い詰められています。パネリストのなかで「現場の危機」を感じさせたのは桜井先生だけだした。」



「新自由主義的発想が支配的な今日、「哲学」の理念をどこまで保持し、対抗力となりうるのか。多くの人々が格闘してきたこの問題の答えは、理念うんぬんよりも、「勝負に勝たなければならない」という点に集約されたように思えた。」

「そもそも我が国の現在のありようを見るならば、フランスの活動を想うこと、比べること自体がナンセンスだ。歴史の重みが違いすぎる。」

「私自身は哲学や学問は好きです。ですが、「何でそんな役に立たないものに時間とお金をかけるの?」という問いに対する答えを出せないところがもどかしい。「精神や人間性を豊かにするため」なんて、答えではない気がする。初歩的というか、素朴ですが、この答えが見つかりません。」

「ひとを「救う」のは思考することへの意志ではないか。答えのない状態に耐え、問い続けること、思考し続けることの大切さを学生に教え続けたい。」

「上映お疲れ様でした。いい意味で映画の「質」の高さに驚かされました。また、質疑応答の際に垣間見た西山先生の哲学に対する姿勢にも感動いたしました。迷いながら哲学を勉強している一学生として、励みを頂きました。ありがとうございます。」

2010/11/17 映画「哲学への権利」第40回目の上映(@首都大学東京)への招待


2010/11/17 映画「哲学への権利」第40回目の上映(@首都大学東京)への招待




映画「哲学への権利」の巡回上映は昨年9月のアメリカ上映から始まりました。日本では12月に本格的な上映を開始し、フランス、香港、韓国を含めて、すでに39回の実施が終了しました。映画とともに実によく旅をした一年です。映画の最後のエンドロールには、これまでのすべての上映会と登壇者、関係者の名前が流れるのですが、感慨深いものがあります。


3月末の東京大学UTCPを去るときの上映会はひとつの大きな節目でした。次回40回目の上映は本務校の首都大学東京です。都庁による改革を経て開学した首都大学東京では、今年、東京都立大学の名称が消えます。こうした歴史的背景をもつ場所で、人文社会系の教員5名とともに大学や人文学について討論したいと思います。この首都大までの上映・討論の記録がまとめられて、来年2月に勁草書房さんから拙書が刊行されることになっています。巡回上映の旅のクライマックスにみなさんの御来場をお待ちしています。

2010/11/17 首都大学東京(福間健二、石川知広、岡本賢吾、宮台真司)


2010/11/17 首都大学東京(福間健二、石川知広、岡本賢吾、宮台真司)




2010年11月17日、首都大学東京(南大沢)にて、福間健二(同大学・表象言語論)、石川知広(仏文学)、岡本賢吾(哲学)、宮台真司(社会学)とともに、映画上映・討論会が実施された(人文・社会系FD委員会部会主催)。冬の訪れを告げるような肌寒い小雨模様の天候で、都心から離れた八王子市南大沢での開催だったが、これまでで最高の220名ほどが参加した。実際の準備運営は私と数名の学生らで実施され、その共同作業もまた楽しいものだった。



討論では、まず監督の西山から、日本、アメリカ、フランス、韓国などをめぐって今回が40回目の上映となることが告げられ、デリダの脱構築が国際哲学コレージュの特徴に即して説明された。

石川知広氏は、かつての東京都立大学の仏文学研究室ではデリダ研究者として足立和浩がいたが、時を経て、やはりデリダ思想を研究する西山が就任したという歴史的経緯を述べた。石川氏によれば、大学には真理と自由が不可欠で、その点では、首都大の図書館壁面に刻まれたヨハネ福音書(8:32)の文句「真理があなたがたを自由にするveritas vos liberabit」は的を射ている。

ただ、この場合、真理とはむしろプラグマティックな真実と言うべきかもしれない。私たちが思考し生きようとする努力の結果として真実は浮かび上がってくる。社会のなかで真実が歪曲されたり隠蔽されたりするなかで、大学の役割と使命は真実を暴いていく点にある。学問的探究はまさに、判断にもとづいた一時的な真実の蓄積であり、それが研究者自身をひいては社会を自由にするのである。

岡本賢吾氏は、「私自身は英米系の分析哲学の研究者に分類され、デリダの敵対者に映るかもしれない。しかし実は、分析哲学のイデオロギー的な諸規定には反対で、むしろ論理学や数学の哲学を幅広く研究している者である」と自己規定から話し始めた。



本作は映画としては予想以上の出来だったが、しかし、インタヴューィーが展開する紋切り型の哲学観の古さは如何ともしがたい。自らの紋切り型を脱構築することから始めないといけないのではないか。というのも、論理学、数学基礎論、計算幾何学など、現場で先端の理論形成に携わっている人々がまさに哲学的な探究をおこなっているからだ。彼らは、例えば、「無限というものは完結したものか、それとも生成途上にあるのか」といった問いに取り組み、隠れた概念を探し出し、研究の方向性を模索している。なるほど、大学制度におけるタコツボ的な哲学は危機に曝されているかもしれないが、しかし、別の場所で現実に哲学はたしかに進展している。よって、本作で語られている、グローバル資本主義下における哲学の危機と抵抗という見方はきわめて無責任で、政治的にはマイナスである。

宮台真司氏によれば、この美しい映画からはフランスの知識社会学的な文脈がよくわかる。つまり、岡本氏が指摘した、ある種の勘違いが社会的な抵抗を受けずに生き延びることができることがうかがえる。それゆえ、コレージュのような場所でデリダの脱構築が特権化されることに危惧を覚える。



本作を観て、宮台氏は自身が開いている私塾のことを考えたという。誰かが学ぶとき、たんに知識を獲得したいのではなく、体験を通じた成長の方が重要である。かつては大学にも名物教員がいて、学生が模倣したいと思える対象になっていた(「模倣的感染」)。宮台氏は大学や私塾での教育を通じて、学生が体験を通じて構え(エートス)を習得し、自己の組成を変えていく試みを続けたいとした。

また、宮台氏は哲学と社会学にはよく似ているところがあると指摘。哲学は「暗黙の前提から自由になる」ことを目指し、社会学は「われわれを不自由にしている暗黙の前提がいかに社会を構築しているのか」を解明する点で両者は表裏一体だとした。デリダの脱構築はルーマンのシステムや再帰性と似たところがあり、それは「さまざまな前提を自覚的に配慮し受入れつつ、これを信じない」という終わりのないプロセスである。

映画監督の福間健二氏は、「映画が今ここにあること」について語りたいと口火を切った。外国に行って対話や交流をした結果が研究者の著作となることはあるが、今回は映画作品となり上映運動になり、出来事を生み出してしまっている。しかも、これは最近の傾向だが、家庭用のデジタル・ビデオカメラで低予算で映画作品ができてしまう。その意味で、ひとりの研究者が独特の映像センスによって映画を製作し、巡回上映をおこなっていることはなかなか感動的である。



福間氏は首都大の歴史にも触れ、都立大学の改革においてまさに制度というものが教員に対して力をふるった経験をほのめかした。しかし、それでもなお私たちが教員を続けているのは、単位やカリキュラムなどの制度的条件に拘束されつつも、それらを超えた〈条件なき大学〉(デリダ)を思い描いているからではないか。少なくとも、人文・社会系の教員なら、誰もがそうした大学像を頭のなかにもっているのではないか。ただし制度的な現実と理想の大学を乖離させておくのではなく、両者を架橋する実践がやはり必要で、そのための具体例として本作から刺激を受けた、と福間氏は語った。

その後も登壇者のあいだで討議が続き、会場からは「哲学と日常生活の関係は?」「普遍的な真理は存在するのか?」「基礎研究の存在意義をいかに説明すればいいのか?」「文系の学生はどうやって数学の哲学に取り組むべきか?」「〈誰かへの愛〉と〈知への愛〉の相違とは?」などの質問が学生から相次いだ。



今回は首都大生だけでなく首都圏の学生、本学の教員や事務員、一般の方など、遠方では山口や秋田から多くの方々に足を運んでいただいた。懇親会も盛り上がり、学生十数名とは朝まで打ち上げが続いた。首都大学東京の人文社会系にもまだまだ学問的な希望があるということを、他ならぬ学生たちの熱気が証明していた。

今回は、学生から教員や事務員、一般の方に至るまで、実に多くの濃密な内容のアンケート回答を寄せていただきました。学生運営スタッフや拙演習の参加者などは名前付きで、それ以外は匿名で、そのうちのいくつかを紹介させてください。



「私は今回の映画上映・討論会の運営に携わらせて頂きました。前準備では学内のいたるところにポスターを貼り、当日は受付をしていました。西山先生からは100人から150人の来場者数が目標、と聞いていましたが、平日の夕方にそんなに集まるだろうかと正直、不安でした。けれども、17時からぞくぞくと人が入るようになり、結局目標をはるかに上回る210人を超える来場者の皆様におこしいただきました! 受付をしている時は「もうすぐ200人!」ととにかく興奮していました。
 それにしても、「なぜ平日の夕方(しかも雨の日!)にこれだけ多くの人が集まったのか。まず、単純に映画『哲学への権利』への興味関心、認知度が高まっているからだと思います。これはポスターを大量に貼ったから!というより回を重ねてきた結果だと思います。継続するというのは、大変なことでだからこそ「継続は力なり」なのだと感じました。もうひとつは、討論会への興味だと思います。特に今回、「都立大カイカクを経た人文社会系の教員が語る人文学の未来」に興味関心を持って来た方が多かったのではないでしょうか。
 アンケートにも書かれていましたが、映画上映のあとの討論会の意義は大きく、面白いと思います。私も映画も討論も観て聞きたかったー(>_<) 」(大宮理紗子・首都大学生・心理学)

「映画という共有された時間、空間において体験することのできる容器を、それも哲学という題材で、あれほどの人数の人々と共に観ることは新鮮で刺激的でした。『哲学への権利』はコレージュや哲学に向けての問いを発生させる可能性のあるものであり、実際に会場からの質疑を聞くと、その一端が表れているのではないかと思いました。今回、映画を観ていると、抵抗が常態化してしまうと、その抵抗は硬直し、イデオロギー化してしまうのではないかという危険性を感じ、また、求められるべきは、絶え間ない運動であり、そして、その運動の場が発生する可能性を失わせないことであり、場と人というのは相互作用的なものだということを忘れないことだと思いました。また、上映前の贅沢な時間は本当にワクワクしました。」(平山雄太・首都大学生・仏文学)

「討論会では、先生方の「知」や「教養」への態度が意外にもほとんど同じだと感じられたのは興味深かった。普段の授業ではなく、あのような場だからこそ浮かび上がることだと思う。哲学や思想とは、知識や内容ではなく態度が大事なのだと教えられた気がした。」(櫻田和秀・首都大学生・哲学)

「東京都立大学の人文学部は、一定の時期まで輝きを放っていたと思うのですが、首都大になる前後のごたごたで、この間、やはりある種の諦念などから来る沈滞ムードに覆われがちだったように思います。今回の上映・討論会は、そういう状況を打ち破る一つのきっかけとなったのではないかと思い、個人的には大変にうれしくありがたく思いました。」(飯村学・首都大職員・管理部教務課)



「今回の討論会においては、2つの点が印象的だった。「映画が映画たりうる条件とは何か」という問い。哲学研究として撮られた映像が「映画」として存立するための条件。福間先生の「これを撮らざるを得ない何かがあった」という言葉には感動を覚えた。
 また、哲学(と)教育、教養に関する議論。「感染的模倣」(宮台先生)から、「知への愛」(西山先生)への変化をいかにして作り出すか。教養とは、自分なりの形を作り、その形を壊すという往復を繰り返すことではないか(西山先生)という指摘には共感した。
 人文学を勉強する一学生として、大学の、人文学の危機は他人事ではない。しかし、映画上映会やゼミナール等の参加を通じて、国内外の研究者の方々、忙しく働く中でも勉強を続ける社会人の方、同じような思いや疑問を抱いて勉強するたくさんの学生との出会いがある。皆でテキストを読んで議論すること、映画を見て討論することに、実用性がないとは思わない。大学がそのような「場」を生み出せる制度であることが重要だと思う。」(犬塚佳樹・東京外国語大学生・フランス語)

「今回、なんの予備知識もないまま見させていただいたので、初め、国際哲学コレ―ジュの紹介映画と思ってしまったのが率直な感想です。哲学という言葉の意味すらも明確に説明できないせいか、どうしてもコレ―ジュとはなんたるか。を観賞中考えてしまいました。改めて、それと哲学を結びつけると、やはりそれはフランスという場における哲学への特殊性を思い浮かべてしまいます。ですから、映画の中で、もっと国際性の豊かな講師陣にすることが将来的な目標であるとおっしゃっていた人の意見には、とても納得するところがありました。討論会はおっしゃっていることが幾分難しく、理解にはほど遠く感じましたが、なぜか飽きのこないもので、楽しかったです。」(山下竜生・首都大・人文社会系1年生)

「この映画に出会うまでと出会ってからで変わったことがあるかと問われれば、それは生涯をかけて哲学と何らかの形で向き合う勇気を持つことが出来たこと。劇中に浮かび上がる多様な論点の中で各々に訴えてくるものがあるだろう。それを問うこと/問い続けることを通して、みずからの"哲学への権利"を行使していくことは出来ないだろうか。一人の人間として生を全うしていく中で、何だか漠然と、しかし不思議な魅力を持つこの得体の知れない大きなそれ。哲学。目の前に現れた時に怖気づきそうになっても、両手を広げて待っているのだから後は飛び込めばいい――この映画が静かに強く語りかけてくれる。」(南唯利・東京外国語大学生・フィリピン語)



「5人もの教官が議論する、ということで討論会は映画そのものに劣らず白熱した。特に岡本先生の、映画中に語られる哲学への根本的な批判はその内容のラディカルさだけでなく、学問に対する真摯な姿勢が印象的だった。ただ、討論会において学問的な話に重心が据えられて、大学制度そのものを問い直すような議論にまで発展しなかったのは残念である。これは時間的な制約もあるだろうし、逆に言えば時間が足らないほど充実した討論会だったとも言え、参加者として興奮した一夜だった。また、客層が幅広く集まったのはひとえに人文学の間口の広さを表していると思う。聞いてもらわねば、来てもらわねばという危機感は、単にネガティブなものでは決してないと再確認できたと思う。」(八木悠允・首都大学生・仏文学)

「2010年は、国際的な人文学の制度的危機を痛切に感じた1年だったが、その最後に自分の所属する大学で先生方の学問に対する情熱を傾聴できたのは、まさに私にとっても「生き方を変える」体験となるだろうという予感を抱いた。一方で、東京都立大学が解体され新たに首都大学東京が設置された経緯のうちで、教員達が感じたであろう学問の制度的な問題に関しても議論が深まればよかっただろうと思う。というのも、宮台氏が述べるような高等教育の縮減において問題となるのは制度の維持であろうし、2010年に感じられた「人文学の危機」はほとんどこの、「人文学にも研究の制度が必要であれば、その制度を誰が保証するべきなのか」という問題に向けられていたからだ。討論会では、デリダ的実践はデリダを特権化するものではないという議論が交わされ、哲学という知の実践の無条件性がむしろ肯定されていたが、他方で制度的にしか保持できない知があるのであれば、それを我々がどのように引き受けるのかという問いは残されたままだったようだ。その点で、私はあの場に歴史学を専攻している先生方が登壇していなかったのを少し残念に感じた。」(木本周平・首都大院生・哲学)

「今回の討論ではそれぞれの先生から専門性の深い考察をいただいたことで、国際哲学コレージュの志向する哲学は、英米系の数理哲学やプラグマティズム、また社会学と、さらにテクストだけでなく映像という媒体とも、問題意識とビジョンを共有していることが確認された。それは体験を通じた成長、前提を揺るがす知 、出来事を促す、他者への関わり、内発性、内なる光の伝達、真理を求め自由の現れる場をつくるなどと表現された。それは大学の使命であると同時に大学制度の限界を顕にもする。『哲学への権利』の次の課題は、こうした隣接部門との差異を認知しつつ独自の専門性を深めて表現することではないだろうか。自らの研究分野でさ らに研鑽してから再度先生方とお話してみたいと思った。
 ところで、もし理系の先生がいれば、「知への愛から人への愛」という経路もあることを、また産業界の人であれば、「利他的なものへの情動」は教育の場だけでなく社会のあらゆる場面で涵養されることを主張したのではないだろうか。」(大江倫子・聴講生)



「今回、「哲学への権利」上映・討論会に参加して、哲学を難しく考える必要はないのだと思い知らされた。どうしても、「哲学」と聞くと難しく考えすぎてしまう。それが普段の授業にも影響し、私は難しいものをなんとか自力で理解しようとしている部分があった。しかし、哲学は触れる角度によって違う学問にもなるのだ、という話を聞いて、肩の力が抜けたように思う。考えに煮詰まっても、別の角度から眺められる柔軟さを身に付けていきたいと、討論会を聞きながら思った。
 また、普段の授業と違い、今回のような討論会だと、同じものでも触れる角度が異なると、どのように見え方が違うのかということがはっきりと見えたので面白かった。勉強するって本当に面白い、世の中にはまだまだ自分の知らないことが沢山あって、それを少しでも多く吸収したい、と私にとっては改めて気合を入れる機会になった。」(川野真樹子・首都大学生・表象言語論)

「石原改革の嵐の中、大変ご苦労があったことが石川先生の発言から推測された。そんな中でも、希望が示され幸いである。200人を越える来場者には驚いた。また先生方の周りでミメーシス(感染的模倣)が起こっているであろうことも感じさせてもらえた。
 映画のご批判に関してだが、「哲学の権利」という映画は、映画単体で理解すべきでないと思う。不特定多数参加の移動ゼミ的側面があり、映画は良くできたレジメ、場と出来事の創出こそ本領。上映後の討論、飲み会、そこでの議論は、たった数時間の出来事が、数ヶ月に感じる事もあった(今回で10回目の参加です)。映画を通じた出会いは人生を違うものにしてくれている。出会った仲間とフランスにも行った。社会企業家への歩みも決めることになった。これからしばらくは、この映画と、西山先生そして仲間たちと、未来をつくる旅を続けてみたいと思っている。」(奥山浩通・会社経営)

「映画を上映後に必ず討論会を設けていることにこそ価値があると感じた。もし映画上映のみならば個人的に消化せざるをえない問題が、つまり問題が暴露されるに留まるものが、討論会が設けられていることで、5人の登壇者らの話を聞きながらその問いが化学変化する場になっていた。
 討論会では、「人文学に未来はあるのか」のテーマのもとに、プラグマティックな学問とは何であるのかという話題に展開した。「哲学が何の役に立つのか」、その問いに普遍的な答えはないと思うが、われわれに突きつけられていることは、それが哲学でなくとも、いかに学ぶか、何に役立たせるか、それ次第で大きく変わるということである。そう言ってしまうと無責任に聞こえるが、実際にそれに尽きると思う。その意味で、哲学とは何かを問うものではなく、何かへの問を喚起するものであると改めて思った。重要なのは、それらが「何である」のかの問いに立ち止まらずに、それらに「いかに」立ち向かうかであると思う。
 今日の大学の制度的なものに問いを喚起するコレージュの例をきっかけにした「大学に未来があるか」の問い対して、「ある・ない」の論争に終始するのはナンセンスである。これは大学に関わるすべての人の立ち向かい方によるのだと、そのあたりまえのことに気づいた有意義な機会だった。つまり、それをどう実現して行くかは自分次第ということである。」(坂元小夜・首都大院生・表象文化論)

「この大学にとって大変意義ある会でした。この大学に学ぶ意志のある人々が集えたこと、うれしかったです。そして、この大学の中には皆の希望が潜んでいます。この会は皆の希望を照らしました。」(加藤洋子・首都大職員・学生サポートセンター)



「新しい組織を立ち上げ、様々な背景の人材により活動することについて、デリダの信念を貫く勇気に感銘を受けました。私は今年、大学の事務職員に就職しましたが、教育機関として奥行きのある場となるよう働いていきたいです。」

「岡本先生がおっしゃる「各分野の先端では十分に哲学がなされている」という点は、たしかにそうだと思うのですが、聞く側からするとso what?という印象です。そこに「哲学」がどのようにあるのか、あるいは、そこで何がなされているから「哲学がある」と言い切れるのか。その説明がなければ「煙に巻かれただけ」という感じです。ただし、そこで観察される運動が「哲学」ならば、それを説明する際の枠組みや参照点は、やはり従来の「哲学的なもの」に依拠すべきだろう、と個人的には思います。「哲学を哲学する」とは、もしかしたらそういうことでは?」

「映画はインタヴューの連続に圧倒されてしまったが、討論会で様々な視点を提示されることで、自分のなかでまとめ切れなかった内容をフィードバックしてもらえた。実際にコレージュに通う人は「抵抗」の意義をどのくらい意識しているのか。」

「とても熱く楽しい時間でした。デリダの運動を真面目に継承している大人がいるなんて、世界はまだ捨てたものではないと勇気をいただきました。」

「映画の後で討論会があることに大きな意味がある。映画のなかで語られていることを受け取るだけでなく、自分のなかで問いが生まれるという経験ができた。何が哲学で何が哲学ではないかということはあまり重要ではない。制度的なものののなかに安住しないこと、緊張関係のなかに身を置くことを避けないことといった、あらゆる立場の、あらゆる学問分野のひとに付きつけられている呼びかけだった。」

「フランスの美しい街の様子やフランス語の流暢な語りは映画の質を高めていたように思うが、背景のブレや雑音、英語のBGMは興醒めでした。映画としてもう少し質を高めてもらえると、もっと多くの聴衆に受け入れられるだろう。」

「出演者がみな個性的で魅力的な人物として映し出されていて感動した。ただ、全体的にノイズが気になった。インタヴューアーの相槌は極力少なくした方がよい。手のショットはブレッソン映画へのオマージュだろうか。」



「映画の内容を納得しながら観ていると、討論会で覆される。では自分はどう考えるのかと思い始め、二重三重に考えさせられた。」

「映画の先生方はデリダの哲学や枠組みの議論に終始していて、現実の社会のなかでそれがどういうことを意味しているのかについて議論が足りないのではないか。」

「なんとなく、フランス人は抽象的な思考が得意そうだということはわかった。それにしてもよくしゃべるなー。日本人は議論が苦手だとよく言われるが、私が映画に登場するフランス人と対等に議論するには相当訓練が必要だろう。」

「私は素人ですが、コレージュに参加してしまったような気分です。しかも、まったく眠くならなかった。哲学という分野をどのようにとらえるか。分野と言ってしまうとそもそも間違いなのか。哲学とは何かを考えました。」

「哲学を活動として語ることと、それをまさに実行することのあいだには落差がある。映画の哲学者たちは前者の態度に尽きているように見えたが、実際には、それを契機に、ある種の「活動」が生まれたようにみえた。」

「日本の大学は哲学と親和的だろうか。学びの場としての大学キャンパスはどうだろうか? 私の勤務先大学では、ある日、ソクラテスが入校して対話を始めたら、たちまち警備員に拘束されてしまうだろう。」

「根源的な何かに近づこうとしつつも、無防備に近づこうとする粗野を言葉の力で押しとどめる。そうした静かな、しかし強い抑制が全体を貫いている印象を受けた。それが心地よくもあり、もどかしくもあった。」



「大学での哲学はどこか仙人的なところがある。やっている本人たちはそれでいいのかもしれないが、社会的には大きな危機にある。そうした状況において、国際哲学コレージュのような場は必要で、希望だと思う。」

「この映画を拝見するのは3度目で、今回も新しい発見があった。ただ、この映画を観て、哲学の意味や敷居を高くしてしまった方もいるのではないか。」

「まさに硬派の映画に息を飲んで視聴することができました。さすが仏国の知の伝統の厚みをしみじみと感じました。有限な物質を浪費していく人類の不安に、無限の知が立ち向かう姿を感じました。無限な「ことば」の構築をこの映画が描いているのでしょう。」(66歳男性)

「この映画を貫くテーマは「流動性」だと感じました。換言すれば、自己言及的な何か、自己反省的な何か。それは自己肯定と自己否定の共存であり、それを通じた自己変容であり、哲学とはそうしたものかもしれない。」

「「知の制度化に抵抗するための制度」という理念にとても共感を覚えました。制度がいったんできてしまうと、共有される知識が限定されてしまう。大学で美術教育を受けた私はそう思いました。〔…〕私としては、美術という制度から自由になり、無条件に好き勝手なことをやりたいわけではない。歴史や制度という要因を踏まえながらも、流動性をつくり出し、新しい表現を模索したい。」(美術大学卒業生)

「国際哲学コレージュは雨漏りのような存在になりたいのだろうか。さまざまな要素を含んで降った雨が、建物という牙城のすき間をぬって漏れ出してくる。ただ降り注ぐだけならば、踏みつけられ、乾いて終わってしまう。しかし、それを人工的にバケツでもって集めて、人が避けて通るものにする。本作は、バケツに溜まった水をその後どうするのか、という話だ。」

2010/11/17 首都大学東京での討論会記録


2010/11/17 首都大学東京での討論会記録


2010年11月17日、首都大学東京(南大沢)にて、福間健二(同大学・表象言語論)、石川知広(仏文学)、岡本賢吾(哲学)、宮台真司(社会学)とともに、映画上映・討論会が実施された(人文・社会系FD委員会部会主催)。討論会の記録を掲載しておきます。(テープ起こし:大宮理紗子)

〈討論〉

西山 今日はお集まりいただき、感謝申し上げます。登壇されている先生方もお忙しいなか、本当にありがとうございます。

 この討論会では、着席順にひとりずつ、この映画に直接関係ある点からお話をいただきます。やや抽象的な話というか、各自の立場や学問分野において気になっていること、どうしても守りたいものなどなどについても話し合っていけたらと思います。

 まずは私の方から。私はこの首都大学東京で、フランス文学のセクションに勤めております。以前は東京大学のグローバルCOEプログラム「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」というところで特任講師をしておりました。その時期にこの映画を製作しました。「哲学者ジャック・デリダと教育」というテーマに関心があったこともあり、2008年にカメラをもってフランスに行き、関係者に取材し、この映画ができました。デリダは世界的に有名な哲学者ですが、フランスでは伝統的な大学の先生ではなかった、いやむしろ、なれなかった。彼はエコール・ノルマル(高等師範学校)の講師を長年務め、53歳で社会科学高等研究院(EHESS)でディレクターとなり、ともかく大学制度の周辺にとどまり続けた人です。そういう人物が大学制度の余白に国際的な哲学の組織「国際哲学コレージュ(CIPh)」を創設した。この点にたいへん興味を惹かれて、関係者の証言を映像に残した次第です。

 私自身は映像の素人なので、当初は、これほどきちんとした形で映画にして巡回上映をするということまで考えていませんでした。ただ、上映後にはかならず討論会をもうけて、大学や人文学をめぐるいろんな問題を話し合う機会にしています。上映はアメリカから始まり、日本各地、フランス、香港、韓国と巡回上映して、今日でちょうど40回目になります。最初は友達や知人に声をかけて、上映会を企画していました。でも、途中からはだんだんと上映依頼がくるようになって、私はむしろこの映画の旅についていくような気もしています。映画自体が旅を始めたかのようです。大学や人文学について考えることは、世界中の大学で共通している話題ですので、来年度以降もドイツ、イギリス、中国などで上映と討論会が予定されています。
さて、聴衆のみなさんのなかで、おそらく、デリダを知らない人の方が多いでしょう。討論会でも、最後の質疑応答のときに、「結局、デリダって誰なんですか?」って質問されることもあります(笑)。簡単に紹介しますと、彼はアルジェリア生まれのフランスの哲学者。現象学という研究分野から出発して、「脱構築」というキーワードが有名です。

 この映画に即して考えてみると分かりやすいのですが、デリダは大学がダメだから在野に新しい組織を作った、というわけではありません。デリダは二項対立を立てて、「こっちがダメだから、こちら」と、破壊したり逃避したりするわけではありません。そうではなくて、大学のいろいろな可能性を拘束している条件のことを再検討します。例えば、学位が必要である、学位取得者が教師になる、登録料や授業料が必要、単位を取得する、キャンパスがあるなど、いろんな大学の条件があります。そのリミットを柔軟に外したときに、大学はどうなるのか。大学はもっと豊かなものであるかもしれないし、逆に、もっと危険な目にあうかもしれない。そういった実験を彼は国際哲学コレージュでやったわけです。大学の限界を問うと同時に大学の可能性をも賭けに投じる、これこそが脱構築の実践です。構築物を破壊するのではなく、その本質に一本の筋をいれることで、何らかの可能性が生まれるのかどうか、その可能性を探る――これが脱構築の簡単な理解ではないか思います。

 コレージュではいろんな実験がおこなわれています。例えば、学位や単位を出さない。大学では普通、学位や単位が出ますし、それがカルチャーセンターなどの他の学問的な組織とは違うところです。大学が中世において制度的に成立したのは、教皇庁から学位の授与権を承認されたからです。ヨーロッパ圏で通用する称号を出す権利をもつことが大学が成立する起源のひとつです。では、学位の授与がない場合に、どのように学校は機能するのか。

 また、場所という点でいえば、普通は大学にはキャンパスがあります。18世紀初頭、アメリカのプリンストン大学からキャンパスが設置されて現在に至ります。最初は、学生と教師がいろんな場所で学びの可能性を探っていく、ある種の運動体として大学が営まれていました。大学は常に移動しており、象牙の塔ではありませんでした。キャンパスという概念に頼らない場合、学びの場所はどうなるのか、そうした可能性をもコレージュは探っています。だから、コレージュのパンフレット見るといつも困るんです。「このシンポジウムに出席したい」と思ったら、ニューヨークとかブエノスアイレスとか、いろんな場所が記されている。さまざまな場所でセミナーが組まれていて、そのすべての場所がコレージュのプログラムというわけです。こうした大学制度の限界の可能性を問うことは、今日、とても示唆的だと思って、上映と討論会をやっています。

石川 仏文では西山君の同僚で、また、人文・社会系の学系長を務めています。

 まず、映画について感想めいたものをお話しします。この映画、私は2回目なんですけれども、西山君はよくこれだけの映像作品をつくったと思います。しかもそれを40回も上映して、そのたびに討論をやって、良く続けられるなぁ、と思います。

 先ほどキャンパスの話題が出ましたが、映画に映っていたところはパリですよね。登場する7人のうち、何人かは部屋で、何人かは公園やカフェでインタビューを受けていました。話の中身や各人の肉体を超えて、それをとりかこんでいる枠組みや風景としてのパリがとても全面に出てきています。みなさんがどういう感想をもたれたかわかりませんが、私にとってパリは特別な場所なので、余計そう感じました。コレージュの事務局はデカルト通りにありますが、たまたま僕が住んでた場所に近くてでした。娘が通ってた小学校もこの通りの近くだったので、いろいろと懐かしいです。

 さて、デリダと言えば、私が習った足立和浩先生という若い助教授が都立大学の仏文でデリダを研究していました。彼は以前、立教大学にいた頃に、デリダの最初の主著『グラマトロジーについて』とう翻訳書を出し、精力的な助教授として着任してきた記憶があります。『グラマトロジーについて』は、最近あまり話題にされないようですが。デリダは有名な「脱構築」という概念よりも前に、いろいろな概念を考案しています。エクリチュール(書き言葉)とパロール(話し言葉)を対比させて、エクリチュールの優位性を主張して、自分の哲学理論を練り上げました。
 私がまだ大学院の博士課程だった頃、足立先生は亡くなりました。ずいぶん時間が経って、都立大学人文学部が現在の首都大学東京に改編され、教員数は激減しました。昨年やっと、東京都庁からフランス文学の先生を新たに1人採用してもいいということになりました。それで西山君が採用され、足立先生と同様デリダ研究者で、因縁を感じなくもありません。

 映画のなかでは、とりわけ自由について強く語られていました。デリダだからでしょうか、真理についてはさほど語られてはいない。私からすれば、大学とは「真理」と「自由」の両方によってはじめて成り立つ場所です。この大学の図書館の入り口には、ヨハネ福音書の言葉「veritas vos liberabit」(真理は諸君を自由にするであろう)と書かれています。これはイエス=キリストの言葉ですが、国立国会図書館の閲覧室の入口にも掲げられています。国会図書館のホームページにはその由来が載っていて、アジア・太平洋戦争を反省して、一番必要なのは「真理である」とあります。例えば、軍部による大本営発表が一番典型的でしょうけど、「真理を見分けられないことからすべての不幸が始まる」という反省があるのです。ところが、国会図書館はやっぱり権力に抵抗できない。ついこのあいだも存在していたはずの文書が所在不明になって閲覧できなくなった。政府にとって都合の悪い文書があると、閲覧は不都合だから公開しない、存在を隠してしまう。検察庁と同じですよね。建前は立派なことを言っているけれども、本当に実践できているのだろうか。大学もまた似たようなところがあります。そんなことを考えながら映画を観ていました。

岡本 私は専門が哲学で、この大学では哲学教室で教員をやっております。論理学や数学の哲学をやっておりまして、世間の分類ですと、いわゆる英米系とかアングロサクソン系と言われる分析哲学になるのでしょう。ですから、デリダやその後継者とはたぶん敵対関係とみなされるのかもしれません。ただ、誤解されがちなのですが、私はいささかも分析哲学者ではありません。分析哲学を決定づけるいくつかのイデオロギーがあるのですが、私はそのほとんどすべてに反対だからです。私は論理学や数学にこだわって勉強をしているわけではなくて、学派的には偏りなく割と公平にやっているつもりです。私の力はわずかで、たいした結果を出してないとはいえ、自分なりの手応えをもって、やりたい研究をやっているつもりです。そういう立場の人間からみた時に、今日の映画が、登場する方たちの意見がどう見えるのか。いわゆる人文学の将来とか可能性とかについて少しだけコメントさせていただく、そういう役回りが私にふさわしいのではないかと思います。

 まず、私が感じた最初の印象を申し上げます。映画としては、私の予想以上に、本当に美しいと思いましたし、おもしろかったです。私はDVDを事前にいただいて、ゆっくり観たのは一回ですが、飛ばしながら4回くらいは観ました。非常に好印象だったのですが、しかし、そこで話は終わりません。

 国際哲学コレージュの関係者たちの哲学観の紋切り型の古さは如何ともしがたい。こんなことをいま言っていてどうするのだろうか。彼らは「脱構築」という言葉がお好きのようですが、こういう紋切り型の思想を脱構築するのが、最初の課題ではないでしょうか。それほどあの的外れぶりには正直驚きました。どういうことかというと、まず、現在のグローバル資本主義や新自由主義という言い方。こういう経済状況のなかで哲学は基本的に迫害される状況にある。さらに、科学からさまざまな追い上げを受けていて、認知科学だの脳科学だのしかアメリカにはない、と言われる。哲学や人文学の未来は悲観的な状況である。それに対して、いかに抵抗するか、抵抗こそが自分たちの実践である。そのために自分たちは他者へと思考を開かなければならない。上からの傲慢な哲学の視点であってはいけない、とも言われる。

 よくわかりますが、これらはすべて、19世紀的な哲学観としてみても古いのではないのでしょうか。何がおかしいかというと、彼らが理解しているようなところにだけ哲学があるわけじゃないし、もっと言うと、彼らによって哲学は見失われていっているように見えるわけです。私が携わっている研究分野だからそう思うのかもしれませんが、論理学や数学基礎論、計算幾何学の現状をどうかご覧になっていただきたい。現場の先端の理論開発をしている人たちが文字通りの「哲学的探究」をやっています。こうした現実を今日出てきた方々は残念ながらほとんど知らないのではないか。

 簡単な話です……いや、簡単って言っても、意外と難しいんですが(笑)。例えば、「無限」とはどのくらい完結していて、すでに確立されて存在しているのか、あるいは、生成途上にあるのか。これは十分に哲学の問題です。コンピュータ科学のなかで新しい可能性を模索するときに、この二つの対立のどちらに立つか。あるいは、たんなる対立ではなくて、どのようにこの概念の掘り下げを進めて、隠れた概念を探り当てて、さらに論理を組み立てていけばよいか。こう考えながら、彼らは完全に哲学者の振る舞いをしています。哲学が危機に曝されているのは制度的にはそうかもしれない。大学の教養課程としておこなわれてきた、紋切り型でタコツボ的な、狭い意味での哲学はたしかに圧力を受けていて、このままではやっていけないのかもしれない。だけど、それはまったく表層的で、的を射ていません。

 哲学は学際性ではないと映画のなかで言われてましたよね。学際性ではない、だから、他者に開かれなければならない、と。違う、違う。すでにやっているわけですよ。科学の先端で哲学は問われていて、すでに発展しているわけです。そういう状況を無視して、外側から「哲学は上から目線ではいけない」とか「経済的な圧迫に対してどうしたらいいのか」とか「支配的な経済的価値観に抵抗する」とか。もちろん言っていることはわかります。私は必ずしも反対なわけではない。けれども、人文学や哲学の未来、哲学への権利を考えるなら、むしろまったく無責任で的外れだと言わなければならない。いや、私は登場人物たちに個人的には好意を感じるんです(笑)。嘘ではないですよ。魅力的な人たちで、たぶん教養が深いこともよくわかります。でも、彼らがそう主張して、人々に誤った印象を与えることは、政治的なマイナスではないか。彼らが語るところに哲学はない、もちろん、ない。別のところでちゃんと進展していて、それを必死になって担っている人たちがたくさんいるのです。

西山 おもしろくなってきました(笑)。じゃあ、次に行きましょう。

宮台 今日はおそらく社会学者として呼ばれていますので、知識社会学的なコンテクストからお話させていただきます。この映画は、たいへん美しいパリという場で哲学をする、ということの社会的コンテクストがわかる。岡本先生のおっしゃるある種の勘違いが、抵抗を受けずに哲学が生き延びる社会的な可能性がよく理解できます。

 難しい話をあまりしない方がよいのかもしれませんが、デリダの「脱構築」概念が特権化されることを僕はやや危惧するんですね。東浩紀君と去年、アメリカの3つの大学、その後、上智大学と東工大の5回、ジャパニーズ・ポップ・カルチャーについて議論をしています。僕自身、10年くらい、私塾をやっています。私塾を開くなら朝日カルチャーセンターで、という依頼を受けて、学生は半額料金という枠を設けて実施しています。それを前提にしていうと、例えば、ジャパニーズ・ポップ・カルチャーについての知識、その中身、その習得方法は、カルチュラル・スタディーズ的な方法と比べた場合、まったく異なります。教育とは、簡単に言えば、「体験を通じた成長」です。体験を通じた成長に組み込まれてはじめて、知識には意味がある。このような考えを、初期のギリシア哲学を学ぶなかで培いました。

 その点で、社会学と哲学ってよく似てるんですね。ソクラテス的に考えると、哲学とは我々を不自由にしている暗黙の前提から自由になることです。社会学の方は、我々を不自由にしている暗黙の前提がいかに社会の秩序を構築するのか、を分析する学問です。両者はちょうど表裏一体になっているわけです。脱構築について言いますと、木田元さんが勧めているエリック・ハヴロックの『プラトン序説』を読むと、非常におもしろいことが書いてある。つまり、脱構築の基本はプラトンに、プラトン的なソクラテス解釈の変遷のなかにある。プラトンは『国家』でミメーシス(模倣的感染)、誰かを見て身体が動いてしまうというある種の酩酊的な感染を徹底的に批判する。これをどう解釈するべきか。二項図式的に解釈して、それこそエクリチュールこそが重要なのだ、眼光紙背に徹して読むことが重要だ、と言っているように見えるけれども、実際には違う。スパルタとのペロポネソス戦争にアテネが負けて、社会秩序が壊れていくプロセスのなかで、実はどんどん文字が普及していくんです。もうミメーシスによって秩序を保つことができないので、プラトンは哲学者の統治を推奨するのです。プラトンには、二項対立という前提を自覚的に受け入れつつ、それを信じないという態度が存在するわけです。

 僕の考えでは脱構築は、ニクラス・ルーマンの「システム」や「再帰性」によく似ています。これはアメリカでも議論になったことで、つまり、ある前提に自覚的に配慮しつつ、これを信じない。所詮、我々は秩序のなかで生きているので、二項対立の図式も使うし、その意味では、我々は非常に不自由な存在なのです。我々を不自由にしている前提に自覚的に配慮しつつ、しかし、これを信じないという構え――これは永久に終わりがないプロセスで、まさに「体験を通じた成長」と非常に密接に絡んでいます。

 この映画を観て思うのですが、僕は私塾を無償でやっています。集まってくる人たちは、知識が欲しいのでなくて、体験を通じた成長を求めている。半年、一年くらいするとヘタレ野郎が、偉丈夫になっていくプロセスがあります。そういう学びが大学制度のなかでなかなか実現しにくくなっている。ずいぶん前、僕が大学にいたころは名物教員がいた。知識を教わったのではなく、彼らとの体験を通じて成長した。感染的な模倣によって、その教授の一挙手一投足を反復する。自分の内的な組成が変わって、気がつくとその名物教授を卒業している、というプロセス。僕の私塾でも、この卒業という地点が非常に重要です。「体験を通じた成長」こそが、僕自身が大学や私塾で若い人たちに伝えたい知識への接触の仕方なんです。

 もともと僕は数理社会学で博士号をとっていますが、岡本先生がおっしゃたように哲学を分野として考えてもらうと困るんですね。例えば、社会システム理論における、ある種の決定不可能性の問題でもいいでしょう。社会システム理論をゲーテル問題やスペンサーブラウンの原始算術を取り入れて理解したときに、理解した側は成長します。相対性理論や量子力学を中学生や高校生のとき、僕らだったらブルーバックスで読みました。それはやはり目から鱗の体験でした。トマス・クーンが言うパラダイム・チェンジのように、我々の前提を揺るがす知識を与えられたとき、成長が起こる。その意味で、哲学とは知識の種類や分野ではなくて、構えです。知識に接するときのエートス(構え)です。こう考えると、デリダという名前や脱構築が特権化されて、国際哲学コレージュに行かないと、その哲学的な真髄に触れられないかのような印象を抱かれると、少しまずい気がします。

福間 表象文化論の福間です。もともとは文学研究者で詩を書いたり、最近は映画も作っていたりして、それで今日ここに呼んでもらえたのかなぁ、と思ってるんですけど……。

西山 家が近所なので、声をかけました(笑)。

福間 あ、そうですか、そうね……(笑)。石川さんとはよく意見を対立させるんだけど、今日の話は普通にわかった。でも、岡本さんと宮台さんの話は全然わかんないところもあったかな……ちょっと恐怖さえ感じました(笑)。

 デリダの生涯を考えると、アルジェリアに生まれて、ジャッキーって呼ばれてた不良少年が、哲学の世界に立ち向かっていった。そうした出自にはつねに僕は共感します。そのデリダについて、たまたま近所に住んでいる西山君が(当時はまだこの大学の教師じゃなかったけど)こういう映像作品をつくってくれた。この映画を観て、僕が普段感じている問題にデリダが関わっていたことがわかった。デリダが死んでから、自分に近いところへ帰ってきてくれたという想いを抱きました。
 それで、映画ということで言うと、これまでの3人が美しい映画って表現したのがね……「えっ!」ていう感じ。この程度の映画を美しい、って……ひとはそういう風に形容詞を使うのかな、と(笑)。

 この映画が映画として、いまここに存在するってことをどう感じているのかをお話ししましょう。外国に行っていろんな知識を学んだり、さまざまな人物に出会ったり、目新しい体験をする。そうして表現された著作が積み重ねられてきて、我々の今日の文化がある。しかし、経験を映画としてもって帰ったというのは、これまでめったになかったこと。誰かに会って協同作業をして、著作に著わすことや、関係者の証言をもっと気楽な形で記録することから映画ができていった。そして、表現手段が映画であることによってこうした上映の機会ができる。映画を通じて、デリダ的に言えば、「出来事」を生み出す。映画ってやっぱり良いものだと言いたい。次に、なぜこれが映画になってしまうのか。(客席中央に置かれた録画用カメラを指して)今日のあのカメラと同じカメラで撮影したの?

西山 はい、同じカメラで。

福間 なるほど、ここ10年くらいデジタル・ビデオカメラで映画ができるようになった。これはメディア的に、映画表現の問題として大きな意味をもっていると思う。デジタル・ビデオカメラによって、その年を代表するような作品が撮られている。また、予算的にも、この映画もすごく製作費が安いでしょうけど、何十億というハリウッド映画に対して、こういう小さなカメラで何百万、何十万円で映像表現ができる。一部の人はかつてのフィルムの方が美しいと言うけれど、それでも映画表現の幅が広がったことは事実だし、映画として認めざるをえない。映画の制作方法だけじゃなくて、こういう風に1人の研究者が自分の関心から、少人数あるいは単独でカメラをもって撮ってくる。それが西山雄二の場合には、普通のひとが簡単にはたぶん撮れないような映像センスというか、写真好きっていうのも活きている。とにかく、そうして今日の映画がつくられているということが感動的なんじゃないかと思う。映画表現として評価するべきことは、「まだこういうことを言ってる人がいるのか」という話とは違うんじゃないか。 

 二つぐらい、この映画について言っておきます。まず、デリダのいう「条件なき大学」、制度としての大学とは異なる大学の在り方です。大学は制度から完全に自由なのではなく、資金などの制約や支援が必要です。石川さんが少し話しかけたけど、都立大学から首都大学東京に改変される時に、制度としての大学がどういう風に我々に対して力をふるうのか、ということを経験した。でも、それでもなお大学教師をやっているのは、自分のなかに制度を超えた大学、頭の中に何か理想的な大学をもっているから。授業とかカリキュラムとか単位とかいう制度を超えて、教員が学生と出会っている。そうした「条件なき大学」が頭のなかになくて教師をやっている人は、少なくとも本学の人文社会系にはいないんじゃないか。そういう気持ちで自分は教師をやってはいるんですけれども。

 ただ、頭の中に理想的な大学があって、現実には問題のある大学がある、という区別で済ませてしまってはいけない。自己批判ということじゃなくて、大学への向き合い方の問題です。場がない、条件がない、制度がないんだけれども、大学であることが実践的な活動で示されなければならない、あるいは、行為されなければならない。映画のインタビューイーの証言の内容はともかくとして、映画のなかで現われているものがあって、刺激を受けました。

 もうひとつはですね、英米のカルチュラル・スタディーズ(CS)についてです。CSが平凡な学際性であり、「思想の警察」という言葉も出てくる。哲学については僕も考えることがあるけれど、哲学がCSをそのように批判しても一面的でしかない、と思う。学際的研究が必要なこともある。哲学こそが「思想の警察」として機能するとも言える。「思想の警察」っていう言い方は左翼的ですね。
 僕は本当は、哲学に対してかなり批判的で、日本では哲学が抑圧的に働いているところがある。でも、国際哲学コレージュは、哲学の専門家が専門家のための理想を追求してつくられたわけではない。そうではなくて、もっと一般的な人々が集う。そして、そういう人々にとっては、宮台さん式に言えば、人間としての体験の一部として哲学がある。映画ではそういう哲学の位置づけがやや見えにくかったかな。みなさんもそうでしょうが、哲学の専門家になるために、この『哲学への権利』を観るわけではない。哲学というものが自分にとってどのようにありうるのか、それこそがこの映画を観るためのモティーフ。その点が、映画の表現全体としてさらに強調されていればよかったかな。

西山 ひとまわりお話をうかがいました。まず、岡本先生に聞きたいんですけれども、「科学の先端に哲学的な思考が根づいている。哲学者が共鳴するべき哲学探究の真の現場はそこにある」、と。その場合に、哲学という名前はその現場にあるのでしょうか。

岡本 中身をちゃんと見れば、現場の彼らは哲学談義に必死になっているわけです。実際に名前を出せば、ヴィトゲンシュタインやパース、フレーゲらが提起したアイデアが探求されている。ヴィトゲンシュタインやフレーゲの専門研究者よりも、はるかにアクチュアルで掘り下げた形で哲学を利用している論理学者やコンピュータ学者はいっぱいいます。そのような現実がある、ということを私は端的に主張したい。「みんな、分析哲学や論理学をやれ」「ここに集っている人たちはそういうことに興味をもて」、というわけではありません。そうではなくて、哲学に対して人々が抱いている、あまりにイージーゴーイングな紋切り型の理解をまず振り返る必要がある。「哲学の危機」や「人文学の再生」の話であれ、「哲学がいかに抵抗し組織化するのか」という話であれ、そうしないと、的を外してしまう。

 ご質問に戻るなら、哲学の名はどちらでもいいんです。簡単に言いますと、19世紀の世紀転換期、1880-1930年代くらいの50-60年間。この時期を丁寧に見ていきますと、哲学も数学も物理学も、もちろん芸術も、社会科学も含めて、いわゆるモダニズムと言われる大きな変転を体験しています。そのときに、哲学者のアイデアが同時に数学であったり、フレーゲルやヴィトゲンシュタインが当たり前のように考えていることは、学際性とかいう話じゃなくて、共通の同一の活動なんですよ。ある角度からは哲学に見えるし、別の角度からは典型的な数学に見える。こうした非常にリアルな展開こそが現代文化を育成している。こうしたことを真摯に踏まえて、いまどういう状態にあるのか、これからどうなるのかと考えるのがすごく重要ではないか。

 脱構築とか形而上学がどうとか、デリダ派の人は大袈裟なことをよく言う。ならば、こうしたモダニズム状況以降のきわめて根本的な文化の流動化にも目を向けるべきです。同じ概念的なものの探究が哲学であり即座に数学にならざるをえない、物理にならざるをえないという状況。僕がきちんと言えないだけで、経済学や政治学にも同じ現象はあるでしょう。モダニズム状況は1930年代にいろんな理由でいったん頓挫します。例えば、ナチズムの問題などの社会的な状況から。また、有名なゲーデルの不完全性定理とか、量子力学のコペンハーゲン解釈とか、これまでの研究を頓挫させてしまう状況が出てくる。モダニズムの流れにおいて、一挙に概念的な変化というか、進化があまりにも先に行き過ぎてしまって、周りが追いつけなくなる。その後は世界大戦もあり、戦後の30-40年はまさに停滞状況に入っていた。それが最近ここ30年くらいで少し変わってきた。

 またデリダ派の話をしますと、彼らはモダニズム状況に乗り遅れていると思う、はっきり言うと。遅れたから悪いわけじゃない。時流から外れた方がよいことはたくさんあります。けれど、最小限を心得ておかなければ、現在の人文学や哲学の意義や価値を見定められないということはある。私の考えでは、デリダとその世代は代表的な哲学者でありながら、モダニズム状況から最初から脱落してしまっている。非常に表面的モダニズムを捉えて――本人たちはポストモダンと表現しないのかもしれないけれども――、とても短絡的に考える。言い回しだけ工夫して、脱構築とか歓待とか……いや、いいんですよ、言ってることはそんな悪いとは思わないので(笑)。ただ、モダニズム期と比べると、70年代の哲学の方がはなはだしく停滞しました。私がいま問題にしているような状況から脱落してしまった。ポストモダニズムを中心にこの文脈が完全に見失われたという危機意識を私はもっているわけです。

 だから、そういう危機意識から私は今日の映画を観させて頂いたわけです。さっき出ていた福間さんのご意見は、まあ、そうかもしれません。しかし、提示されている言説の質や方向性について、映画を鑑賞した方々が「やっぱりそうなのか」と思って帰るとしたら、これはひどい。まったくそんな現状ではない、と私は責任上、たとえ野暮であっても言わざるをえない。

 また、映画のなかで「プラグマティック」を「実用主義的」と訳すのは間違いだと思う。使ってる人が悪いからしょうがないかもしれない、典型的に誤解ですね。それほど意識してないんでしょうけれども。私がやっている分野は専門性の高いというか、趣味的な――趣味じゃないんですが――、長年修行しなければできないような分野です。得られた結果を話すと面白がってくれる人がいるから、そんなに偏屈な世界ではないと思うのですが、いざ自分でやろうとするとちょっとできない。私の専門ん分野をみなさんもやってください、と申しているわけではない。興味のある方はやってくださればよいでしょうけど。そうではなくて、哲学に生じる通念にとらわれてはいけない。言葉の魔法に騙されてはいけない、とヴィトゲンシュタインなら言うと思います。

西山 ありがとうございます。真摯な意見として非常にありがたいと思います。

 この映画はいろいろ批判されることもあります。教室の風景が出てこないとか、学生の姿がないとか。一方的に教師の理念ばかりが語られて、プロモーションビデオっぽい、とか。教室での撮影にはフランスの研究教育省の許可が必要で、丁寧な依頼文を書いたんですけれども返事がない。そこで、教室や学生のイメージを欠いたアンバランスな形になりました。そういうアンバランスさを補うためにも、こうした討論会の開催は非常に効果的だと思います。

 映画のタイトルは『哲学への権利』となっています。「哲学の権利」でなくて、「哲学への権利」。「私は哲学の権利を持っている」という形で、哲学は我用化されていない。「への」は距離のある表現で、「哲学って何だろう。哲学はどこにあるのか」という問いに誘いますし、このことを考えるために映画上映と討論会を開いています。

 宮台先生に質問なんですが、「ミメーシス(感染的模倣)」とは、「誰かへの愛」だと思います。宮台先生であれば廣松渉や小室直樹に感染をして、自分の研究を洗練させてきました。最近亡くなった社会科学研究者・小室直樹さんは、無料で自主ゼミをやっていました。国際哲学コレージュでは学際性が謳われていますが、小室さんはひとりで政治学から社会学、心理学までを修めた学際的な人だった。東京大学の経済学で学ぶ一年分のメニューを一週間でやる。問題は、「誰かへの愛」を「知への愛」に移行することの難しさです。「ミメーシスしろ」というのは簡単だけど、次に師のもとから独り立ちすることになる。「知への愛」を自分で探しなさい、もう「ミメーシス」は必要ない、と。教育や成長のプロセスにおいて、「誰かへの愛」が「知への愛」へと変わることをどのように考えたらよいのでしょうか。

宮台 目下、マイケル・サンデルの白熱教室が大変な人気。彼の講義は93年ごろから、マーク・ハウザーが調査した有名なトロッコの例が出てきます。暴走するトロッコの前に5人の男がいて、そのままでは轢き殺してしまう。ところが、ポイントを切り替えると方向が変わり、5人は救えるけれど1人の作業員を殺してしまう。さて、どうするか? 国や文化に関係なく7割の人間が「ポイントを切り替える」と言うんですね。でも、よく似た状況で、たまたま橋の上にいて、おあつらえ向きにデブな男が横にいる。デブを落とすとトロッコが止まって5人は助かるが、デブは死ぬ。君はどうするか? 国や文化を問わず、今度は逆に、8-9割の人間が「できない」と言う。倫理学の解釈では、一般に、5人よりも1人を殺す方がまし。これを功利主義あるいは帰結主義的な合理主義といいます。功利主義だけでは説明できない。つまり、「無理だ」「落とせない」、あるいは「ポイントを切り替えられない」という人がいる。しかし、カント的な義務論に従っているかというとそうではない。5人の男を救うのに、デブを落とすのと作業員を1人轢き殺すことは質的に何か違うものがある。

 マーク・ハウザーの神経生物学的な結論によれば、ここには情動の壁が存在します。つまり、E・O・ウィルソンのバイオフィリアやバイオフォビアを踏まえて、我々は動物にどのような感情を抱くのか。こうした情動は、我々のディスポジション(傾向)として作用している。だから、「あの人はすごい」と感染するプロセスにはある種の傾向性がある。人は多くの場合、利己的な人間には感染しないで、なぜか利他的な人間に感染する。ミメーシスと言っても、それほど神秘的なことが起こっているわけではないのです。

 まったく別の話題ですが、この映画には新自由主義に対する誤解があるのかもしれない。新自由主義はダグラス・ハードという男爵が、1970年代末に主張した立場です。要するに、福祉国家政策によって財政が破綻し、空洞化した産業状況を逆転しようとして、小さな政府・大きな社会が主張された。イギリスのキャメロン現政権が唱える「大きな社会」が評判になっていますが、またその前のニューレイバーのブレア政権の「第3の道」も、ダグラス・ハードの議論と同じなんですね。つまり、国家を小さくし、社会を大きくするしかない。とくに90年代以降グローバル化が進み、資本移動の自由化が進むなかで、こういうことがわかってきたんです。つまり、グローバル化にはアンチを唱えることができない。資本移動の自由化がなければ、貧しい国が豊かになれないからグローバル化は不可欠、不可避です。しかし、グローバル化が進むと、例えば、従来有効だった国家の政策がダメになる。具体的には、累進税率を上げるとか、新しい税制を設けるとか、所得税を上げるとかですね。あるいは雇用規制によって、解雇や非正規雇用を規制するとか。そうすると、生産量を向上させるのに必要な投資の割合を上げてしまい、資本が逃げてしまう。だからヨーロッパは法人税率が半分になりました。例えば、ドイツは40年間で法人税率を40%から16%にまで下がりました。これはイデオロギーじゃなくて、新興国を富ませるような国際貿易の自由化の結果、不可避的に生じる流れです。つまり、新自由主義っていう「主義」がある、と考え方は今日の社会科学的な水準からいうとありえない立場なんです。

 とはいえ、アソシエーション(協同)というのは大変意味のあることです。つまり、国家が小さくなり社会が大きくなるなかで、社会学の言葉でいうと、中間集団の包摂性を豊かにしていくしかない。中間集団の助け合いの構造を、伝統的な家族、性別の役割分業、男女差別などと結びつけたがゆえに、新自由主義は最初、評判が悪かった。でも、もともとは、中間集団の包摂性=助け合いの構造をより強化しようっていう話なんです。グローバル化によって共有財、コモンズと言われるものの構造が変わりました。たしかに個人が危機に曝されるけれども、その代わりに新しい共有財が増えていく面もある。したがって、新自由主義に抗うというよりも、むしろ、新自由主義的な立場に棹差すことが重要でしょう。グローバル化のなかで、グローバル化が可能にする新しいアソシエーションや共同の可能性を模索することはとても大事です。その意味では、この国際哲学コレージュのような営みも、その中身は別として、僕の言葉で言えば、新自由主義的な運動の一つです。国家が大きくなることができないので、アソシエーションによって個人を包摂していく動きの一環です。つまりこれは新自由主義的な動きそのものである、と僕なんかは社会学的な枠組みのなかで理解するわけです。

 話は戻りますが、「近接性」をとり上げましょう。何が良くて何が悪いか、何が気持ち良くて何が気持ち悪いか、という個人の考えはその人がひとりいるときと近しい人と一緒な時とでは変わる。これはディスポジション(傾向性)の問いです。コミュニタリアンならば、個人を分断した時に作用する先行構造ではなくて、他の人間たちと一緒にいること、近接的な関係性において作用するものを重視しようとする。そういう意味で、もともとは、コミュニタリアン的なアナーキストの立場なんですけれどもね。「近接性が重要だ」というような立場を補完したり補強したりする実践の一つなのかな、って思います。

西山 福間先生は「さほど美しくない映画」とおっしゃいましたが、映画が映画たり得る条件って何だろう、と私は改めて思いました。ある人には「ちょっと惜しいね」と言われました。「映画はやっぱりショットが必要。シーンとカットは良いんだけれども、カットがショットとしてどのようにつながっているのか、をちゃんと考えないと映画にならない。ショットを適切につなげることが映画とテレビのドキュメンタリーの違い」と指摘を受けました。さきほど誰でも映画が撮れると言いましたが、しかし、誰もが「映画作品」として仕上げられるのでしょうか。

福間 そう言われちゃうと、本当はよく分からないところがあるけど、ただこの映画が映画としてどの程度成立してるかというのは……何て言うんだろう、それほど美しくないっていうか……。

西山 「美しくない」と連呼しなくていいですよ(笑)。

福間 いやいや……でも、これを撮らざるをえない西山雄二の何かがあったってところがね。やっぱりそこを見なきゃいけないと思う。

 哲学と映画の出会いで言うと、ドゥルーズの仕事の意義は大きい。ドゥルーズが『シネマ』で純粋的、光学的、時間-イメージと言っているものにこの映画が踏み込んでいるのかどうか。インタビュー自体は安易に撮られているかもしれないけれども、その前後でどういうモンタージュをしているか。それから、褒めるならば、あの夕景のオーバーラップ。ああいうシーンが何のためにあるのか。簡単に言うと、理想的な哲学を説いたり、「国際哲学コレージュがいい」と言っても、実際には、ある種の徒労感や疲労感がともなう。「こうは言っても本当は大変なんだ」っていうことが夕景で表現されているのかな。よく表現しているというか、表現として含みこもうとしている。現在の問題に対して鈍感じゃないっていう感じ。

 映画では「場の問い」が提起されるけど、「時間」も大事じゃないかな。今の学生たちにとって、大学の4年間でものすごく追いまくられていると思う。入学してやっと慣れて、二年目で専門に進み、3年の後半でもう就活しなきゃいけない。こういう時間の速度こそが、大学制度以上に恐ろしい圧迫になっている。それに対して、映画の時間イメージというのは、自分が生きてる時間。学生からすれば、3年の後半が就活の始まりとは決められてない。「条件なき大学」という発想は、大学の4年間っていう時間に対して自分の時間を生きることのヒントになるんじゃないだろうか。この映画がもう少し時間という論点に踏み込んでくれたら、おもしろかったかな。

 さっきから新自由主義やプラグマティズムの話が出ているけど、もっと単純なことを言っておきます。要するに、我々が都立大から首都大学東京に移行する過程で、人文的な学問がどういう実利を得るのか、という不毛な問い――ある意味では真面目に受け止めなきゃいけない問いを突き付けられた。その点をこの映画は指摘している。哲学はどういう利益を生むのか、実際の利益がないと追い詰められていくという話。
それで、国際哲学コレージュが一年間4300万の予算で運営されているって、これ安いですよね?

西山 相当安いです。

福間 石川さん、ここの人文社会系の予算はいくらくらいですかね? それと比べても安いですよね。

西山 常勤スタッフ4人で2000万円が消えますから、実際の活動費は2000万円くらいですね。

石川 人件費を入れなければ人文社会系の予算の方が低いけれども、人を雇っていることを考えれば桁違いですよね。

福間 そうですよね。この4300万円というのは、安さの尺度として考えさせられる。たった4300万円で1年間の活動が生み出されている。僕としてはいいなっていうか、大したものだなって、具体的に感じましたね。

宮台 ちょっといいですか。岡本先生がおっしゃった「実用主義」っていうプラグマティズムの訳語、これは本当にとんでもないと思うんですよ。一応この映画に関係するんで言っておきますと、リチャード・ローティは96年のアムネスティ・レクチャーズ「人権について」の中でこう言っています。人間の本質は何か、公正や正義の本質とは何か、と我々はずっと問うてきたが、これはナンセンスである。我々は1965年まで黒人を人間だと認めてこなかったし、それ以降も女性を人間と認めていない。そういう我々が、人間の本質について抽象的に議論することに何の意味があるんだ。実際に意味がある境界線の引き直しに向けて、感情教育に乗り出すべきだ、と。

 彼はジョン・デューイの正当な後継者である、とも言っていて、大変奥深い話です。つまり、ローティやデューイのいうプラグマティズムでは、実際に有用なことが重要なんです。その有用とは、しかし、境界線の引き直しであるとか、あるいは実際に平等の実現に資するような感受性の涵養に役立つという意味で、いわゆる実利主義とは違う。そして、たんなる知識でもなく、やはり役立つことが重要なんです。それは例えば、デューイならば他者への関わりです。あるいは、アメリカの超越論哲学のエマソンで、彼は内なる光を連鎖するように伝達していく。これがプラグマティズムの基本的な含意です。そのように考えると哲学もまさにプラグマティックです。つまり、新自由主義やグローバル化、自由化のなかでさまざまなことを個人が抱えがちであることを前提に、我々が地獄に落ちないために役立つある種の絆や知識が求められている。だから、その点でも、映画では言葉の使い方がやや安易だな、と。新自由主義もプラグマティズムも彼らの発言では否定的に扱われているけれど、英米系の哲学からすれば、「ちょっと理解が違う」と思える部分があります。

 ちなみに、福間健二さんと私にはある共通性がある。それは若松孝二の映画好きってことで、福間さんは大学生の頃に「現代性犯罪シリーズ」の第一弾を作ったんですね。それで言わせていただくと、60年代末の若松孝二の映画っていうのは、観る人の世界との関わりが本当に変わってしまうような何かでした。僕は実際、若松孝二の映画によって人生が変わっちゃいましたよ。たんに世界の見方が変わっただけじゃなくて、生きる態度が全部変わったっていうくらい大きな影響を受けた。

 また、鈴木清順さんの映画『殺しの烙印』っていう1967年の映画が大好きで、もう130回以上観てますよ。しかし、この映画の良さが言葉にできなくて非常に困った。「シネマ・シックスナイン」っていう雑誌で、蓮實重彦さんは『殺しの烙印』の素晴らしさについて、映画に接触している90分の体験がどういうものであるのか、をひたすら記述していて、僕は非常に納得した。つまり、映画ってこうじゃなきゃいけないってことはないと思う。フィルム体験が重要だし、映画を通じて世界に対する接触の仕方がまったく変わることもあるし、いろいろです。

 以前は、映画について寓意的な意味を語る映画批評がもっぱらだったけれども、蓮実さんはフィルム体験をひたすら記述する(これは後に「表層批評」と呼ばれます)。多くの人たちが、寓意的な解釈では救済されない映画の素晴らしさは、これでまさに言い当てられると思った。すると今度は、蓮實的なフィルム体験をひたすら真似るような映画批評が量産されていき、そうしたエピゴーネンに対して蓮實さんは非常に否定的だった。映画のある種の観方がルーティン化して、世界に対する接触の濃密さをダメにしていくんです。

福間 若松さんと蓮實さんから宮台さんが受けとったものは、つまり、プラグマティックですか?

宮台 そうですね。

福間 そうだよね。同じように、この『哲学への権利』は、僕にとって、また大学に関わりながら悩みながら生きている人間にとって、プラグマティックな何かをもっている作品です。

西山 ちなみに、国際哲学コレージュでは、リチャード・ローティとデリダの共同シンポジウム「脱構築とプラグマティズム」がおこなわれて、日本語でも法政大学出版局から翻訳が刊行されています。

石川 国際哲学コレージュの在り方については、私はあまり批判はありません。ただ、映画で語っている人たちについては、やはり若干苛立つところはあります。「論語読みの論語知らず」っていう表現がありますけれども、つまり、『論語』には孔子の意図があるのに、論語読みたちはまったく理解していない。デリダを大切に思って崇拝しているけれども、その思想に対して批判が足りない。やっぱり、これではだめだろう、デリダは泣いているんじゃないか。そういう弟子たちをつくった点では、デリダにも甘いところがあって、岡本さんから攻撃を受けるのはわかるような気がしないでもない。デリダ本人はたしかに、そういう危険性についてつねに意識的であろうとしたのですが、しかし、だからこの罠から逃れられるかというとけっしてそうではなかった。

 さて、大学の問題に少し入ります。我々の学部は以前、「人文学部」でしたが、「人文・社会系(Humanities and Social Sciences)」と変わりました。人文学(Humanities)はフランス語Humanitésでは複数形ですけれども、この言葉は自ずからある種のバイアスがかかる。たんに人間に関する学問というだけでなくて、近代に至るまで西欧文明が二千数百年に渡ってギリシャから発展してきたという意味が込められている。ルネッサンス、宗教改革、そして啓蒙主義とつながってきて、その後、19世紀の実証主義の学風が生まれてくる。

 我々日本は「文明開化」という形で、欧米に由来する人文学をキリスト教の研究とともに受容する。明治期には、欧米列強に追いつくために、富国強兵の国策として進められていくわけです。脱亜入欧を掲げて、アジアのトップになると、大正教養主義の時代になる。ここで一度、カタストロフが到来する。無理を重ねてきた日本の政治経済のシステムが崩落し、無謀な戦争に雪崩れこんでいくわけです。そして、負けたら全部がひっくりかえって、また元に戻ります。今度はアメリカの影響で民主主義や今の憲法がつくられ、小学校から大学までの新たな学校制度ができます。これは新たな戦後民主主義的な教養主義です。大学紛争があり、大学の大衆化があり、文科省による教養課程の大綱化があり、その最後の到達点として大学の法人化が実施されます。我々の大学もそのもっとも典型的な形として、とくに人文学部に関しては、ほとんど壊されてしまったと言わざるをえない。

 この大学でいま、私は、人文・社会系の学系長という管理者をやっています。予算や教員評価などに関わっていますが、大学の制度はつねに社会的・経済的な基盤と切り離せない。制度にはお金がかかるということを非常に実感しています。例えば、この講堂だってお金がないと維持できない。予算はつねに都民の都税から来ている、だから、我々は都民に対して説明責任がある、これは御説ごもっともですよね。さて、国際哲学コレージュの場合は、固定した場所とか予算をもった組織ではなく、もう少し自由である。じゃあ、政府から補助金が出なくなれば、どうなるか。無料で提供される講座、ディレクターを雇う人件費、政府に借りている事務局の場所。お金を払いなさいと言われても、収入がないわけです。デリダは勇気をもってコレージュを創設したと、カトリーヌ・マラブーは一生懸命褒めています。政治家と直接折衝をして、予算を確保することがデリダの個人プレーで成り立ったんだけれども、それでいいのだろうか。お金が出なくなったら、この制度はなくなる。そういうことも考えて、映画の7人が喋っていたのか僕はよく分かりません。でも、社会のなかで大学が運営されているということは非常に重たいことだ、と痛感しています。

〈質疑応答〉

質問者1 この映画を観て、コレージュでは実際にどのようなことを教えているのかが気になりました。従来の哲学と、哲学/芸術、哲学/法、哲学/経済って何が違うんでしょうか。講座の表題だけ見ていると、岡本さんや宮台さんが言うプラグマティックな哲学の探究にみえるのですが、どうして映画のなかでああいう発言になってしまったのでしょうか。

質問者2 もっとも大事な「領域交差」は、哲学と日常生活だと思います。両者は交差するのでしょうか。とくに岡本先生が研究されている分野は、日常生活とはあまり関係しないんじゃないかと思いましたが。

西山 映画には授業風景がなかったから、わかりにくかったと思います。まず、話の前提として、フランスの大学教育システムは非常に閉鎖的で保守的です。高校でも哲学が教えられるんですが、基本的にはプラトンかサルトルまでの西洋哲学だけです。哲学教師になるためにアグレガシオンという国家試験がありますが、その試験で出題範囲が決まっています。フランスの大学は80数校ありますが、すべて国立大学です。このように、「哲学とはこうである」と国家が統制できる側面があります。

 だからこそ、デリダは大学の外部にコレージュをつくり、新たな哲学を創造できる機会を与えようとしました。その成果として、日本語に翻訳されているもので言えば、レジス・ドゥブレの哲学的メディア論『メディオロジー』があります。また、翻訳学を開拓したアントワール・ベルマンの『他者という試練』もあります。翻訳学とは、哲学でもあるし、歴史学でもあるし、言語学、政治学、精神分析でもある。新しい学問ジャンル生み出す実験的な場所としてコレージュが機能しているのです。

岡本 簡単に言うと、哲学をある程度学んで、研究してみると、生き方が変わっちゃうわけです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、ものの見え方が本当に変わります。ヴィトゲンシュタインの主張をとり上げましょうか。例えば、我々は心について、漠然たるイメージをもっている。我々が体験してる経験が舞台の上で次々と映し出されているような映画的モデルです。映画みたいにありとあらゆる表象がずっと流れていて、我々はその観客で、舞台の手前に座っているというイメージ。「今~したい」とか「明日~するつもりだ」といった我々の主張は心的記述とみなされる。かなり難しいので、ここで話を切って恐縮で……授業に出て頂きたいのですが(笑)。我々のそういう言い回しはただの言い回しであって、「今~ということを私は信じている」「ケーキを食べたい」と思ったら、ずっとケーキが頭の中にあるのか、そうではないわけです。行動の傾向性なんですね。舞台のスクリーンのなかにケーキの絵がずっと浮かんでなきゃいけない、そんなことあるわけがない。そうではなくて、食べられるチャンスができたら積極的に行動するとか、何とか食べられるように努力をするとか、さまざまなやり方がある。我々は生まれてから成長するなかで、普通に日常生活を営むためにある種の像を注ぎ込まれるわけです。

 ヴィトゲンシュタインに言わせれば、こうした像はほぼ全部、偽なんです。こう言うと、「物体しかないのならば唯物論」と答える人がいるが、そうではない。心と身体を分けて、心が身体に働くというのはたぶん矛盾があって、二元論は無理なんです。我々の日常的心理は、常識の大半はおそらく偽なんです。物体でない心が物体である身体を動かせるわけがないからです。だから、我々は生まれた時から、かなり不正確な描像を注ぎ込まれている。別にどっぷりとこうした現実に浸って生きてもかまわないわけです、ひとつの人生だから。だけども、「それでは絶対に立ちゆかない」とか、「違った見方が必要だ」とか、とくに科学研究では、私たちの通念が障害になって大事なことが見えなくなったり、誤解されたりします。だからこそ、我々は新しい概念を開発して、これを身体ごと習得しなければならない。自分を変えなければならない。当たり前なんですが、当然日常生活にも影響が出てきます。

質問者3 大学には真理と自由が必要だということですが、普遍的な真理ってあるのでしょうか。大学が普遍的な真理を求めると言えるのはなぜですか。ひとそれぞれに真理があると思うのですが。

質問者4 この映画は、どのように学問を正当化していくのかっていう話だと思いました。理科系の友人から話を聞くと、やはりお金になるような研究じゃないと研究費が出ないし、研究ができない。でも、いまこれをやっておかないとまずいという研究もあります。例えば、いまはプラグマティックではないんだけれども、百年後にはもしかしたらプラグマティックになるかもしれない研究は、どうやって正当化されるのでしょうか。

石川 私の喋り方が悪かったと思うのですが、もちろん、普遍的な真理という言い方はありえない。さっきから話題になっている言い方をすれば、真理はプラグマティックにしか成り立たない。

岡本 みんなプラグマティストになっていく……(笑)。

石川 真理は我々の関わり合いの結果で浮かび上がってくるものです。「真理」という言葉で、私は「真理」と「真実」を混ぜています。まず、「真実」ですが、我々の行動はすべて何らかの判断に基づいていますが、それ、「一時的にこれでいい」という前提によるものです。例えば、この電車に乗ったらどこに行くのか。毎日の電車だったら確かめもしませんが、初めてであればその行き先を確認する。その都度、確認した判断はその人にとっての真実です。「真実」とは、我々が何らかの行動をするための基準となる事実の積み重ね、という風に考えて下さい。

 あるいは、メディアを通した真実となると、もっと重要です。例えば、尖閣諸島のビデオの問題の場合、どこに真実があるのか。我々はビデオを見ましたが、ビデオっていうのはあくまでも画像の情報でしかない。あの映像もまたでっち上げで、自分たちでつくることができるのかもしれないし、できないのかもしれない。あの映像は最初は隠されていて、突然、ある海上保安官がネットに流した。すべての真実があるはずで、結局、それぞれの人が自分なりの情報をもちながら、自分なりの真実をつくっていくしかない。権力をもっている人は、都合の悪い情報は捻じ曲げて報道したり、隠したりする。では、誰がこれを暴いてみせるのか。今まではメディアがやってくれていたけれども、最近のメディアは本当にあてにならない。だとすると、社会のなかで自由な行動力や判断力、さもなければ知識をもっている人たちがやらなければならない。その使命を負うのが我々大学教師ではないか。大学という制度が保護している人間の義務ではないか。

 次に、「真理」は学問の色々なレベルで言えます。我々はある条件のなかで、「これが真理である」と、自分の結論を出す。それは研究の成果として、大学に求められている仕事のひとつです。そういう成果を他者あるいは自分のために少しでも積み上げていければ、それだけ自分も社会も自由になることができるのではないか。人間の条件から逃れられるのではないか。この大学にはあまり希望がないかもしれませんけれども、そういうことが許されている限り、大学というものには希望があるのではないか。自分が希望をもつだけではなくて、社会に希望を与える。そして最終的には、自分の存在をかけてでも希望を創っていくことが大学の使命ではないか。

西山 はい、じゃあ宮台さん、普遍的な真理はあるのか、ということと、この大学にも希望がある、ってことを話してください(笑)。

宮台 ああ……社会学は経験的な学問で、経験の偶発性や特殊性に注目するんですね。そのことは、先ほどの「体験を通じた成長」と結びつくので少々お話します。

 例えば、日本社会のあり方は特殊です。自殺率はイギリスの3倍、アメリカの2倍で西側諸国では一位。東大病院で死ぬ人の4割近くは葬儀なしで火葬場に直行。孤独死や無縁死が当たり前。あるいは、超高齢者の所在不明問題や乳幼児虐待の放置問題。日本では「行政は何やってるんだ」って盛り上がっていますけど、海外のメディアからすれば、こうした問題は日本社会のおかしさそのものです。自分の近所に100歳以上のお年寄りがいるかどうか気づかない地域社会はおかしいじゃないか。児童虐待を放置することは恥じゃないか、と。日本社会において我々が経験していることは非常に特殊です。 
 こうした日本社会の特殊性を我々が自覚すると、そのネガティブな点を何とかしなければならないと考え始めます。日常生活における構えを変えないかぎり、我々はこの日本社会における特殊な怒涛の流れを変えることはできない。社会学はそういう意味で、プラグマティズムと非常に密接に関係がある。それこそ、ギリシャ哲学は、ギリシャ社会の暗黒の400年を二度と味わわないためにはどうすればよいのかっていうプラグマティックなものと結びついていたんです。

 首都大の希望ですか……それは、大学制度の問題というよりも、みなさん次第かもしれない。日本社会は、昔は個人GDPが世界3位、今は23位。おそらく4-5年のあいだに、台湾や韓国に抜かれる可能性もあるし、国債を考えると、5-6年のうちに暴落が起きる可能性がある。みなさんは転落の道を歩む可能性が非常に高い。その時にどのように構えればよいのか。大学での講義だけじゃないんですが、知識との接触を通じて、従来の構え方や行為態度が変わる、生き方が変わる、社会に対する感受性が変わること。そういうことをみなさんが目標にしないと、僕たちが何をやっても引き出せない。ただ僕としては、無料というのは重要で、自分なりに私塾を始めている。「生き方を変えたい!」と思う人たちが、お金があるかないかによって、知識への接近可能性が左右されるのはよくないから。そのゼミに他の大学から学生がやってくるのは大歓迎です。僕のゼミは合宿では95%くらいが学外者で、通常の授業も8割が学外者。そういう意味では、首都大という場こそが、コミュニケーション・チャンスの場。古くから議論されていることなんだけれども、単なる知識というよりも、末長く生きて行くときに役立つ、それこそ「プラグマティックな知識」を伝えていけたらなと思います。

福間 ちょっといい? 今の彼(質問者4)の質問はもっと素朴な質問なのに、我々は答えてない気がするから。彼が言ったプラグマティックと宮台さんが主張的に使ったプラグマティックがあって、僕が納得したプラグマティックはズレがあると思う。質問者の言ったプラグマティックは「お金がある」くらいに訳しちゃった方がいいかもしれない。当然生きるって言ったって、お金のためだけに生きられるわけがない。だから、研究もお金のためにだけ研究ってやれるはずがないんですよね。それが一つの答えですよね、それでも、お金になる研究が優先されて、お金にならない研究が排除されるなかで、どうやって生きていくのか。その先で、考えるべきこと、闘うべきこと、議論するべきことが始まる。

2010/12/17 東北大学(勝守真、寺本成彦、坂巻康司)


2010/12/17 東北大学(勝守真、寺本成彦、坂巻康司)




2010年12月17日、東北大学(川内北キャンパス)にて、勝守真(秋田大学)、寺本成彦(東北大学)、坂巻康司(同)とともに上映会がおこなわれた。東北地方での初の上映会で、秋田や山形、岩手など近隣県からも何人も足を運んでいただき、60名ほどが集まった。寒い中、遠方より足を運んでいただいた方に謝意を表わしたい。


(左から 坂巻康司、寺本成彦、勝守真)

勝守真氏は、日本の現実と比べて、映画は夢物語を語っていることに驚いたと口火を切った。旧来の学問分野が成り立たなくなると同時に、カルチュラル・スタディーズ的な学際的研究もまた難しくなっているのではないか。映画では「抵抗」が強調されるが、コレージュが掲げる「領域交差intersection」には戦いの要素はあるのか。異なる学問分野が仲良く混ざり合うという心地よさにも聞こえる。



寺本成彦氏は、デリダの支持者として、また、近年の人文学の危機という問題意識から登壇しているとまず、自らの立場を表明した。デリダは言葉に対する執拗な反省をおこなうことで、文学への揺るぎない信念を指し示してくれる。また、近年、国際や人間といったキーワードを加えて新しい学部学科が創設されているが、それはたんなる融合や混合以上の何かを生み出しているだろうか。



坂巻康司氏は、この映画は巡回上映という形式で思想の運動を成功させているが、しかし、この映画自体に運動性が欠如しているのではないか、と難点を指摘した。



会場からは興味深い質問が相次いだ。「秋田の近所の図書館にはカントの『純粋理性批判』さえ所蔵していない。哲学の可能性が身近に感じられない。日本では哲学は専門的なもので、一般人の意識からは遠く、できれば避けたいもののように思える」が最後の問い。登壇者3名が誠実に応答し、私はこう答えた――「哲学は専門的であると同時に、「知への愛」として思考する欲望一般をも指す。「哲学への権利」は奇妙な言葉で、「への」という表現によって「哲学とは何か」を問う。哲学の可能性があるのかないのか、とは別の意味で、「哲学への権利」は開かれており、それをあなたに伝えるために私は東北までやって来た。」