巡回上映の記録 2010年4-5月
旅の途上
旅の途上
映画「哲学への権利」は3月27日の東京大学駒場・UTCP上映で第一期の巡回上映が終了しました。これはチラシの裏に掲載した上映日程をすべて終えた区切りということです。昨年夏頃から全国の友人たちに呼びかけて組んだ、一連の上映日程が終了したわけです。
上映とともに討論会を併載して、毎回多彩なゲストに議論の相手をしていただいています。各人の視座から鋭い感想や問いを投げかけていただき、みなさんの寛大な尽力には頭が下がる思いがします。4月の新年度からは、私から上映会を組織するのではなく、むしろ上映依頼によって日程が埋まってきています。そのため、私の力を越えた思わぬ形での上映・討論会が企画されたりもしていて、こちらとしては緊張しつつも嬉しい限りです。
(会場設営・準備がもっとも緊張する時間。毎回異なる会場と設備なので、その都度、工夫をする必要がある。写真はパリ・国際哲学コレージュでの準備風景。)
これまで、各会場での設営、準備、受付、写真・動画撮影、後片付けなどに関して、全国各地で学部および大学院の学生が協力の手を代わる代わる差し伸べてくれました。彼らのおかげで運営が非常に上手くいっていることにとても驚いていて、感謝の念が絶えません。
「映画の巡回上映、おつかれさまでした」と声をかけられることがあります。しかし、少なくとも秋までは予定が組まれており、上映の旅はまだまだ途上にあります。今年度もこの映画を通じて新たな出会いと発見があることを期待しつつ。
2010年4月1日 西山雄二
2010/04/02 愛知大学(樫村愛子、中尾充良、下野正俊)
2010/04/02 愛知大学(樫村愛子、中尾充良、下野正俊)
2010年4月2日、愛知大学豊橋校舎にて、樫村愛子(愛知大学)、中尾充良(同前)、下野正俊(同前)とともに上映・討論会がおこなわれた(50名ほどの参加)。新入生歓迎の催事が実施されており、満開の桜景色のキャンパスは初々しい雰囲気に満ちていた。
樫村愛子氏は社会学研究者の立場から、さまざまな目新しい制度が資本主義の趨勢に急速に飲み込まれ、活用されていくなかで、やはり何らかの制度をその抵抗の拠点としていかに確保するのか、と問いを発した。国際哲学コレージュは脱構築に即した「制度を問う制度」であるが、彼女の表現によれば、それは「転移共同体」と形容される。たしかに、デリダの脱構築的な理念を明示的ないしは暗示的に継承する限りにおいて制度が維持されるのだが、だがしかし、デリダからの脱転移が生じる限りにおいて知の伝達と発展が実現されるのである。
(樫村愛子、中尾充良、下野正俊)
中尾充良氏は、コレージュ・ド・フランスを例にとりながら、フランスの高等教育制度の背景を具体的に説明した。コレージュ・ド・フランスは16世紀に大学の外部に設置された高等教育機関で、国際哲学コレージュと同じく、学位授与権はなく、無償で誰もが学ぶことができる。ただ、あくまでもフランスの学問的権威に特化した機関であること、専門的な業績によって教師が選出される点は国際哲学コレージュとは異なるだろう。
下野正俊氏は、ドイツ哲学研究者の立場から敢えて違和感を表明。コレージュが「哲学とは純粋知ではなく実践である」という方向を目指す場合、哲学の存在意義はどうなるのだろうか。大学の枠内で言えば、医学部や法学部など、いたるところで実践がおこなわれている以上、逆に、実践とは結びつかない知として哲学には何が残されるのだろうか。下野氏は「哲学=実践」という定式に哲学が収斂することの限界と倒錯性を鋭く指摘した。
また、コレージュがフランスというナショナルな規定性から、場所の規定性から解放されようとするならば、逆説的にも、私たちはこの映画が上映され討論される「いま、ここ」に敏感にならざるをえない。映画のなかで「哲学のない社会は実在する」と語られるが、それは日本ではないだろうか。また、多様な場所における思考の実践について言えば、(西洋)哲学の単数形の普遍性はどのように問い直されるのだろうか。
2010/04/23 一橋大学(鵜飼哲)
2010/04/23 一橋大学(鵜飼哲)
2010年4月23日、一橋大学にて、鵜飼哲(一橋大学)氏とともに、大学院言語社会研究科の主催で上映・討論会がおこなわれた。鵜飼氏と二人でカトリーヌ・マラブー氏の講演会を2005年に開催したことのある学内施設・佐野書院にて実施されたこの会には、濛々と煙る冷たい春雨のなか、高校生や一般市民から教員まで110名ほどが参加した。
一橋大学大学院言語社会研究科は私が鵜飼氏のもとで博士号取得まで6年間を費やした場所であるだけに、今回のイベントには感慨深いものがあった。神戸から東京に出てきて、修士課程に入った頃のことが思い出された。本作はデリダが創設した国際哲学コレージュを描いているが、鵜飼氏は80年代、私は2000年代にパリ留学中、コレージュで学び、デリダのゼミに出席していた。教師と学生、教育と研究、これらの諸条件を可能とする学校制度をめぐって、一橋大学で鵜飼氏と議論することは、それゆえ、私にとってある種特別な経験である。
鵜飼氏によれば、〈誰もが学べる権利〉はすでに70年代にパリ第8大学で実現していたが、83年にミッテラン政権下の目玉として創設された国際哲学コレージュではさらに、〈誰もが教える権利〉が保証されるように構想された。実際、鵜飼氏が留学当時、マラブーやアブデルケビール・ハティビなどの気鋭の若手が教鞭をとっており、コレージュがなければ出会わなかった人たちがたくさんいたという。
コレージュは脆弱で周縁的で、しかし柔軟な場とされるが、そうした制度的特性がハティビのようなモロッコの研究者にもゼミを開講する機会を与えていた。ハティビは「いまのフランスで、コレージュほど研究教育にしっかりと従事できる場所はない」と語ったことがあるという。鵜飼氏の鋭い指摘によれば、80年代初頭、第三世界や旧植民国への関心があり、コレージュは「南」へと開放されていたが、25年を経て、欧州連合が形成されるなかで、むしろ「東」への開放へと力点が移ったのではないか。だとすれば、コレージュが謳う「国際性」はどの程度ヨーロッパ的な限定性を帯びるのだろうか。
鵜飼氏は最後に、マラブーによる「思想の警察la police de la pensée」という表現に触れた(映画字幕ではこの表現は直訳されていない)。社会での支配的な考え方からずれていくこと、つまり、「思想の警察」による取り締まりに抵抗することがコレージュの存在意義であるだろう。私たちの頭のなかにすでに幅を利かせ、「これこれのことを考えてはいけない」と命じる「思想の警察」に抗して、集団的に討議し、問題提起することが重要なのである。
4月23日の一橋大学でのアンケートから、いくつかを紹介させてください。
「大学を出て〔社会人になって〕思ったのは、完全に収益性とコストがほとんどの場で判断基準となっており、あとはほんの少しのスピリチュアリズムが「哲学」の名でカタルシスを与えていることに対する衝撃でした。そうしたなか、制度として哲学を残していこうという試みは本当に貴重なものに感じられます。」
「今日は衝撃を受けました。世界にはこんな知の営みがおこなわれているのかと、若いうちに知ることができて良かったです。これから始まる「知る」という旅への良いきっかけになりました。もっとたくさんの10代の方にも観てもらいたい。知識がない人にも感じるところが何かあると思います。」(一橋大学商学部1年生)
「〔映画の副題で〕「軌跡」と訳されているtracesですが、一般にデリダ研究者のあいだでは「痕跡」と訳されますね。論文「差延」のなかで、形而上学のテクストは痕跡であり、読むべきものとしてわれわれに残されている、とデリダは言いました。この軌跡(映画)を読む僕らは、デリダと同じことをしているわけですね。脱構築が分有されていること、脱構築の実践を認めることができるでしょう。したがって、tracesが複数形で書かれていることも重要でしょう。」
「映画としての体裁は良くできているが、内容と合致している感じがしない。エンディングに多重露光をしたり、音楽が大げさすぎる。インタヴューなのだからそのようなデコレーションに凝らずに、もっと淡白にやった方が視聴者が内容そのものに集中できたのではないだろうか。」
「前回、渋谷アップリンクでの上映のとき、まったくわからなかったので、とりあえずいろいろ考えてみましたが、今日の上映でますますわからなくなりました。ただ、みなさんがかっこよく見えました。」
「鶴見俊輔さんと「思想の科学」研究会とコレージュを重ね合わせながら観ました。たいへん面白く、活き活きとさせられました」(夕方の買物帰りに参加させていただき感謝している市民)
「哲学を学ばなくとも生きている人が現にいる。むしろそうした人の方が多く、大学の教授ですら哲学に触れていない。では哲学とは何であり、何のためにある学問なのだろうか。」
「ものすごく楽しみにしてきたが、表層うわすべりのような表現でがっかりした。理念を伝える目的の映画ならば、せめてテロップを読む時間の長さをもう少し工夫してほしい。哲学的な語りに慣れた人たちのための映画としか思えない。」
「私は英文学専攻だが、哲学のことを聞いて何になるのだろうと思っていた。しかし、文学においても「哲学への権利」から応用できることはいくらでもあると気がつき、1年生が始まる前に観ればよかったと思った。」(大学2年生)
「かつてジャン=リュック・ゴダールが「映画を観た後に、映画についてもっと話し合うべきです」と言っていたことを思い出した。今回、それに成功していたと思えたのは、たぶん、この映画に重要な問題提起がいくつも含まれ、うまく提示されており、その示唆を受けて観客と登壇者、映画のあいだにたんなるすれ違いだけではない、交差が生まれたからです。映画の理念・哲学・教育・思考の理念が重なり合ったのが、「今日、ここ」という場であった、という美しい感傷を私は否定できません。」
2010/05/18 代官山ヒルサイドライブラリー(長谷川祐子、杉田敦、片岡真実)
2010/05/18 代官山ヒルサイドライブラリー(長谷川祐子、杉田敦、片岡真実)
2010年5月18日、代官山ヒルサイドライブラリーにて、長谷川祐子(東京都現代美術館チーフ・キュレーター)氏、杉田敦(女子美術大学)氏、片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)氏とともに、CAMPの主催(担当=井上文雄)で上映・討論会がおこなわれた。アート関係者を中心に約50名が参加した。
CAMPは同時代のアートの可能性を共同で考えることを目的とする団体で、アーティストやキュレーター、ディレクター、批評家、研究者、学生などとの協同によって、トークイベントや展覧会を主に都内各所で開催している。そうした遊動的で自由な共同空間を模索するCAMPでの上映は、本作品の趣旨とも深く共鳴するものであった。
(普段は図書室として利用されている空間を上映会場として設営)
杉田敦氏は、アルチュセールやグリッサンの思想が関係性の美学を豊かな仕方でもたらしたように、「哲学」や「アート」は自閉した二項ではなく、哲学の話がそのままアートの話になり、アートにおいて生じていることが哲学となるような両者の親密な相互性があるとした。
(長谷川祐子氏、杉田敦氏、片岡真実氏)
片岡真実氏は、「哲学」を「アート」に置き換えて本作を鑑賞することで、「制度のなかに留まりながらも実践しうる戦い」とは何かを考えたと語った。美術館の観衆は一枚岩ではなく、さまざまな層に分かれている。まず、美術館への寄付をおこなう富裕層があり、アメリカの事例のように、その経済的権力が館長の任命権や収蔵品の傾向にまで力を及ぼす場合もある。また、展覧会に足を運ぶローカルな観衆がいる一方で、ネット環境を通じた潜在的で国際的な観衆もいる。片岡氏は、美術館は各層に応じたアクセス権を充実させる必要があると語り、制度と権利の関係を浮き彫りにした。
長谷川祐子氏は、「哲学やアートという伝達困難なものをいかに伝達するのか」という問いから話を切り出した。哲学やアートを結びつける観点として「運動」と「制度」が挙げられるだろう。「運動」によってさまざまな創造が生起し撹乱した後で、それらを検討し共有するために「制度」が必要となる。だとすれば、多くの人々を歓待するための場やメディアとして制度はいかに構想されるべきか。長谷川氏は、創発的な出来事を引き起こす自己組成的な場に関心があると語る。以前勤務していた金沢21世紀美術館では、ワンカップ大関を片手にもったおっちゃんまでも入館するような場づくりを目指し、カオス的な場にいかなる示唆を与えられるのかが重要視されたという。
長谷川氏は、宗教や科学では解明されえない問題が21世紀にもち越されていて、哲学やアートは「最後の問い」に応答するべく存続すると主張。その意味で、人文的なものは劣勢ではなく、起死回生のチャンスにあると明言し、会場の聴衆を魅了した。
今回は、映画「哲学への権利」の討論会で初めて芸術関係者との議論がおこなわれた。初回にもかかわらず、現場の第一線で活躍されている方々と刺激的なお話をさせていただき、大変有益な機会を得た。登壇者と主催されたCAMPの方々には心からの謝意を表明する次第である。
2010/05/29 日本フランス語フランス文学会@早稲田大学(水林章、藤田尚志)
2010/05/29 日本フランス語フランス文学会@早稲田大学(水林章、藤田尚志)
2010年5月29日、日本フランス語フランス文学会 2010年度春季大会のワークショップ枠で早稲田大学小野記念講堂にて、水林章(上智大学)、藤田尚志(九州産業大学)とともに上映・討論会がおこなわれた。学会参加者に一般観衆が加わり、約150名が参加した。
(藤田尚志、水林章)
水林章氏はまず、フランスにおける人文学の深刻な危機について現状報告をした。グローバル化にともなう世界の全面的な商品化のなかで、経済と市場の圧倒的な優位が生じ、「消費者」によって「市民」が圧倒されている。「市民」とは公権力から自立しようとする存在であるが、そうした共和主義的市民の原理の衰退は学校教育の衰退と軌を一にしている。
教育の形態としては、教育の無償原理が揺らぎ、高額なビジネス・スクールが人気を博し、高位の学位のために高額な授業料を設定する大学も登場している。教育の内容としては、経済的効率性や有用性が教育を左右し、人文的教養の終焉とさえ呼称しうる事態が生じている。実際、1999年以降の欧州規模の高等教育再編「ボローニャ・プロセス」が、産業界の要請に応じる形で教育の市場化・商品化を押し進めた結果、「思考の拠点を求める教育」は「市場での競争能力の獲得としての教育」に変貌してしまっている。
水林氏によれば、西欧において人文学が消滅するとは、解放のプロジェクトとしての〈啓蒙〉の消滅を意味する。西欧における批判的理性=〈啓蒙〉とは限界を定める能力であり、「自分はどこにいて、どこに向かい、どこで立ち止まるべきなのか」を見定める力である。こうした事態に対してフランスでは危機意識と抵抗の意志が見られるが、日本では「脱知性化」(1997年の加藤周一の表現)どころではない、知性の根こそぎの抹殺が起こっていないだろうか。人文学の(再)構築を意識したフランス語やフランス文学の教育をいまこそ考えるべきだ、と水林氏は問題提起した。
藤田尚志氏は、水林氏が共著『思想としての〈共和国〉』で引用したドゥブレの文言「共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、それは何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある」を引く。そしてさらに、社会と学校の関係にいかに国家が介入するのかを認識することが重要であるとした。また、大学の現状を踏まえた上で、教育の有用性と無用性、有償と無償をただ対立させるのではなく、条件性と無条件性を新たな関係に置き直し、交渉をおこなうことを自らの戦略として提起した。
今回は映画『哲学への権利』の初の学会での上映だったが、登壇したお二人の真摯な言葉によって非常に濃密な空間ができた。フランス語教師としての現場の苦悩や葛藤を垣間見せながらも、人文学への信を語ろうとする二人の姿は感動的ですらあった。
5月29日の日本フランス語フランス文学会@早稲田大学でのアンケートから、いくつかを紹介させてください。
「今回はグローバル化(経済的支配)に対する抵抗という視点が強調されたが、一般的な人生の問題を普通の人々が考えるという面もあると思う。」
「早稲田大学文化構想学部の一年生で、〔…〕第二外国語としてドイツ語を学んでいる私は、この会場ではある意味で異邦人のような感覚を味わいました。ただその感覚は不快な、気まずいものではなく、開かれた、という出会いの驚きとでも言える感覚でした。」
「一言でいうと面白くありませんでした。サブタイトルに「コレージュの軌跡」とありますが、コレージュを本当にとり上げたかったのでしょうか。だとしたら、教育の場面や成果を具体的に描くべきだったと思います。あれだけの人数であれだけしゃべられてもコレージュのイメージが浮かびません。」
「今日、4回目です。今日が一番面白いと感じました。1回目は音楽しか頭に残ってなかったです。2・3回目は分かろうとして考えるのに必死でした。これからももっと領域交差してください。」
「デリダがコレージュを設立してからもうすぐ30年経とうとしている現在、抵抗としての知の実践を、制度としての大学へと結びつけることにはどれほどの正当性(あるいは妥当性)があるのだろうか。」
「藤田先生と同じような境遇なので、藤田先生にも映像にもとても励まされたところがあります。」
「将来の進むべき方向性も、ある特定の職業に就くことに疑いを抱いています。ですが、何らかのカタチでこの世の中に出たいと思い、日々色々なところに足を運び、学び、吸収しようと今は努めています。上映会そして討論会を続けていただきたいと思います。私も少しづつですが、「何か」に向かって(いえ、「何も」ないかもしれませんが)歩んでいきます。」