巡回上映の記録 2010年2月
旅思 ― 映画『哲学への権利』巡回上映中
旅思 ― 映画『哲学への権利』巡回上映中
本映画『哲学への権利』は2009年9月にアメリカ東海岸の4大学で上映された後、同年12月から日本各地で巡回上映中である。主に大学を会場にして上映されるが、ジュンク堂新宿店や朝日カルチャーセンターなど、大学外の場所でも上映がおこなわれた。観衆は20名のときもあったが、最近では立ち見が出たり、遅れてきた方々が会場に入れなかったりするほど盛況な会もあった。
上映後には必ず討論会を併載し、毎回異なるゲストの方々と映画の直接的な印象から理念的な話までさまざまな議論を展開している。私自身驚いているのだが、上映作品は同一とはいえ、場所とゲストが変わるために討論の内容は毎回著しく異なったものになる。毎回、監督という立場で一緒に登壇しているのだが、あたかもジャズの即興セッションを名プレイヤーたちとその都度披露するかのような感覚に陥っている。実際、討論部分だけを何度も聴講するリピーターが少なくないのはその証左だろう。
私は映画製作はまったくの素人なので、入門的テクストで勉強しながら、撮影、編集、交渉などをほとんど独りでおこなってきた(実を言うと、現在も勉強をしつつ作品を修正し続けている)。毎回、誰よりも早く上映会場に入って機材の準備をし、すべての討論会に登壇して質疑に応答し、懇親会では参加者の方と交流するようにしている。つまり、大学、人文学、哲学の現在と未来をめぐるこの映画の上映運動に対して、私という等身大の個人の責任と信念が、数多くの方々との共同を通じて、どこまでその責務を果たすことができるのか、試してみたいと思っているのである――「いかにして研究と教育にもっとも瑞々しい現場性を付与すればよいのか。しかも、学問領域の壁を越え、個々の大学の垣根を越え、そしてさらには、国境を越えるような現場性を研究と教育はいかにして獲得するのだろうか。」
映画『哲学への権利』の一場面
「研究者のあなたがなぜ論文ではなくて、映画なのか?」としばしば問われる。本作はデリダの国際哲学コレージュのたんなる紹介記録映画ではない。むしろ、コレージュを一例としつつ、あくまでも日本における大学、人文学、哲学の現状と展望をいま共に考えることが本旨である。こうしたアクチャルな問題を共に議論する場をつくるためには、映画は優れた媒体であるだろう。同じ主題で私が講演会をおこなっても、せいぜい10名ほどしか集まらないだろうが、映画ならば学部学生や一般の方も参加しやすい。しかも、映画は作者であるはずの私の統制を大きく踏み越え、それ自体で現場をつくりだす底知れぬ力がある。私が模範的前例としているのは、1990年代半ばに日本全国で実施された映画『ショアー』の上映と討論の運動であるが、本作もまた私の予期せぬ仕方で生きもののように動き始めている。
2010年3月までの上映計画は私の主導で組み立てられ、数多くの友人や尊敬する先達たちが力を差し伸べてくれた。4月以後の上映はさまざまな人と場所からの依頼で自ずと組まれていく。今後は愛知大学、一橋大学、新潟大学、神戸市外国語大学、明治大学、東京芸術大学、上智大学、首都大学東京など、大学以外では西田幾多郎記念哲学館、逗子のカフェなど、そしてドイツや韓国などで上映が企画されている、ないしは企画され始めている。
今週から関西へと場所を移し、6日間移動しながら、異なる場所で6回の催事がおこなわれることになる。その後は、フランスに向かいパリとボルドーで計3回の上映が予定されている。パリではまさに国際哲学コレージュで上映がおこなわれ、討論ではコレージュの議長をはじめとした面々が登壇してくださることになっている。3月には再び東京各地と京都での上映が再開されるのだが、嬉しいことに、映画出演者3名(ミシェル・ドゥギー、ボヤン・マンチェフ、ジゼル・ベルクマン)と共に討論会を実施することになった。
ご関心のある向きは各地での上映・討論会に足を運んでいただければ幸いに思います。
2010年2月3日 西山雄二
2010/02/04 筑波大学(佐藤嘉幸、トマ・ブリッソン)
2010/02/04 筑波大学(佐藤嘉幸、トマ・ブリッソン)
2010年2月4日、筑波大学にて、佐藤嘉幸(筑波大学)氏とトマ・ブリッソン(同前)氏とともに上映会がおこなわれた(約50名ほど。通訳:小川美登里)。
トマ・ブリッソン氏は、本作をより深く理解するために、フランスにおける哲学の社会的立場を啓蒙的に説明してくれた。フランスにおいて、哲学者は大学や高校において国家公務員であるため、国家による政治的・経済的な統制を受けやすい。サルトルをはじめとする戦後のフランス哲学者が大学とは異なる場所で活動したのは特徴的である。国際哲学コレージュは68年以後の研究教育の可能性を体現しているが、それが現在の資本主義下でいかに苦戦しているのかが映画では示されているとした。
佐藤嘉幸氏は、哲学の有用性を新自由主義の趨勢において考察した。その上で、コレージュが掲げる無償性が微妙な仕方で資本のエコノミーから逸脱しているのではないかと述べた。フランスでは68年の歴史的出来事がヴァンセンヌの実験大学(後のパリ第8大学)を生み出し、国際哲学コレージュに先鋭的な仕方で受け継がれている。筑波大学と言えば、日本の68年に対する応答として創設された新構想大学である。なるほど、筑波大学は研究と教育の分離、教養学部の無設置、学際性の称揚、社会に開かれた大学などの新しい野心的な理念を掲げていた。しかし、フランスとは異なり政治的には保守的な立場をとっている点は興味深い対照をなす。68年への応答として創設されたフランスと日本の「開かれた大学」がなぜかくも異なる政治的傾向性をもつのか、と佐藤氏は根本的な問いを提示した。
2009年に本作を製作したとき、まず友人たちにメールでYOUTUBEの予告編を案内した。わずか数時間後、「ぜひ筑波大学で上映しよう」と返信してくれたのが佐藤氏だった。今回は彼の充実した報告とともに、映画上映の最初の約束を果たすことができてとても嬉しい夜だった。
2月4日の筑波大学でのアンケートから、いくつかを紹介させてください。
「自分のやっている人文学の勉強がけっして無駄なものではない、と安心した。」
「最近、水戸美術館でドイツの現代美術家ヨーゼフ・ボイスの展覧会を見てきました。ボイスらは1970年代に『自由国際大学』を創設しているので、国際哲学コレージュとの相関について考えを巡らせてみたい。」
「自分は学部3年生でデリダに興味がある。大学院進学を考えていて、多くの人が『文系で院=死』という人が多いが、デリダの『勇気』に今日は勇気をもらった。」
「非常に感銘を受ける部分が多かったと同時に、やはり一定以上の水準の知識と経済力をもった人々の話、という印象を正直、ぬぐい切れなかった。それは仕方のないことかもしれないが。哲学が人間のすべてを問題にする以上、見落とされている人や状況がまだどこかにあるような気がした。」
「学際性に関するシーンで、カルチュラル・スタディーズとの違いを見せるための質問が、映画全体のなかで浮いていないか。むしろ『哲学/…』の関係に突っ込んだ方が、『哲学・経済』という大きな問題系に進むのではないだろうか。」
「メディアとして映画を選択したのは最適だった。哲学を学ぶときにまずぶち当たる壁が抽象性の高さだから。映画なら聴覚・視覚から具体的に対象を把握できる。」
「〔討論会で登壇者の〕みなさんがフランス語で話されるとき、手がよく動くのが印象的でした。映画のなかでも手のシーンが差し挟まれています。『哲学』と聞いたときに何となく思い浮かぶ、『何か難しそうなもの』という権威(?)のようなものではなくて、語りのなかに浮かび上がってくる、その行為のなかにしか存在しないもの――それが『手』のなかにあったのではないか。」
2010/02/05 大阪・アートエリアB1(本間直樹、中村征樹)
2010/02/05 大阪・アートエリアB1(本間直樹、中村征樹)
筑波大学の宿舎に一泊して移動し、新幹線で関西に向かう。2010年2月5日、京阪電車「なにわ橋」駅内にあるスペース「アートエリアB1」にて、本間直樹(大阪大学)氏、中村征樹(同前)氏とともに上映会がおこなわれた。約100名ほどが詰めかける盛会となった。
(地下1階コンコースの一部につくられているスペース。「アート」「知」などをテーマにさまざまなプログラムが実施され、「コミュニケーション空間としての駅」を目指す。)
中村氏は、大学を市民に開く場合、大学人が外へと活動を展開する事例が主流だが、国際哲学コレージュでは哲学を教える権利――哲学への権利――もまた、市民に開いているという点が根底的であると分析した。
本間氏は、本作をドキュメンタリー映画の枠組みをはみ出す哲学テクストであると評した。というのも、デリダに関する説明や図式を前面に押し出すことなく、インタヴューイーの言葉の力に触発され、それらの力を表現しようとしているからだ。
(中村征樹氏、本間直樹氏)
本間氏は彼なりの仕方で、哲学と社会の対話の場づくりを実践してきた方である。喫茶店や小学校、アートエリアB1などで哲学的対話の場をつくってきた。場所の選定、椅子の配置などの配慮も含めて哲学の実践は成り立つことが強調された。「哲学を社会に開く」――口で言うのは簡単だが、無条件に開けば開くほど、実は、主催者に課せられる負担は大きくなる。大学であれ在野であれ、ある物理的な場所が歓待の場へと変容することはいかにして可能だろうか。歓待は実践のなかにしかなく、場所とは行為遂行的なものであるのだ。
街中での上映+討論会だったので、一般の参加者が多く、質疑もとても刺激的だった。さすが大阪の哲学カフェ。「ごく普通のおばちゃんが『物価ってこうなっているんやで』と話をして、誰かが『あ、それおもろいな』と反応すれば哲学は成り立つのか」といった独創的な、しかし的を射た質問も発せられた。明日からも関西での上映が続く。何が飛び出してくるのか、とても楽しみ、まだまだ何か起こりそう。
2010/02/06 京都大学(廣瀬純)
2010/02/06 京都大学(廣瀬純)
朝、梅田の宿から京阪電車で京都へと移動。京都は青空だが大粒の雪が舞っていた。2010年2月6日、京都大学にて廣瀬純(龍谷大学)とともに上映会がおこなわれた(のべ100名ほどが参加)。思想と映画に詳しい廣瀬氏はきわめて独創的な視点からコメントをし、実に縦横無尽に話を展開した。
廣瀬氏はまず、本作には原作があると指摘。デリダの大著『哲学への権利について』(1990年)をもとにして、西山監督が各インタビューイーにそのエッセンスのシナリオを語らせた映画であると規定した。本作には国際哲学コレージュの絵(教室風景、学生の証言など)がひとつも描かれていない。国際哲学コレージュは「現実」と混淆した「汚らわしいもの」であるにもかかわらず、本作は敢えてその「汚れ」を排除して「美しいもの」として成立している、と彼なりに分析した。
デリダは「言葉」を「肉」へと変換することに敏感な思想家だったが、コレージュを創設したことはまさにこの「受肉」の一撃を引き起こしたことに等しい。ところが、本作では「言葉」が無理やり「肉」にならなければならないという逆説、つまりは「汚染」は描かれていない。それは必ずしも欠陥ではなく、この映画固有の力をなしていると作品構造を描き出した。
廣瀬氏の刺激的なトークに反応して、会場からは質問が止めどなく発せられた。立木康介(京都大学)氏は、国際哲学コレージュの現場を映し出すことで、在野における知の実践を提示した方がやはりよかったのではないかと指摘。日本社会のように過度の制度化は知的創造力を弱めるだけであり、制度の余白をいかに残すのかが重要である。その意味で、本作は「大学とは何か」を問う映画ではなく、「大学という『制度』の外でいかに知を流通させることができるのか」をめぐる作品である、とした。
京都大学での上映はICUと同じく学生主体で進められ、成功に終わった。廣瀬氏の卓抜な話術によって笑いの絶えない刺激的な会だった。臼田泰如氏をはじめとする学生のみなさんの労を心からねぎらいたい。まちがいなく今回は、雪景色の京都の光景とともに、一連の上映会におけるひとつのクライマックスになるだろう。
2月6日の京都大学でのアンケートから、いくつかを紹介させてください。
「この美しいドキュメンタリー映画を観終わって、『哲学への権利』というタイトルは似合わないと感じた。この映画のなかで語られていることは、何かを要求することでも、何かと闘うことでもなく、哲学を営むこととその方法のひとつをめぐる考察だから。むしろ『哲学することへの欲望』の方が、とても素直に映画を代弁するように思える。」
「哲学専攻の学生ですが、研究計画を立てていると『それは哲学ではない』と教授から指摘されることが多々あります。最初は、問いの立て方が甘いのだろうか、と自省していましたが、結局のところ、哲学とその他の学問領域との境界にあるものはダメ、あるいは狭義の哲学しか哲学として認められていないかもしれないと思うようになりました。〔…〕哲学を学んでいる人間であるということの襟を正されると同時に、誇りをもてる映画でした。」
「そもそも経済とは価値を価格とみなす価値判断によって成立している。したがって、哲学は経済や経済原理との関係において、この価値判断について問い直していかなければならない。」
「これは詩だなと思いました。最後の握手のシーン以後、思わず顔が緩みっぱなしだったので他の観客の顔を見回してみたら、意外とみんな難しい表情。でも、終わった後で、にこやかな表情の人が増えたので嬉しかった。」(詩人)
2010/02/07 大阪大学(望月太郎、斉藤渉)
2010/02/07 大阪大学(望月太郎、斉藤渉)
地面にわずかに雪が残る京都から、阪急電車で大阪方面に移動。宝塚線石橋の駅で降りて、小高い丘の上にある大阪大学豊中キャンパスへと向かう。2010年2月7日、望月太郎(大阪大学)、斉藤渉(同前)とともに上映会がおこなわれた(60名ほどが参加)。
(斉藤渉、望月太郎)
望月氏はデカルト研究者から出発して、幅広い主題で哲学教育の現状について考察を巡らせてきた方である。今回は、ユネスコにおける哲学教育の取り組みに即して哲学への権利、つまり、哲学へのアクセス権について話を展開した。世界的に見て、哲学は大学のみならず、社会のなかで多層的に実践されている。初等・中等教育段階における哲学教育、企業での哲学カウンセリング、在野の哲学実践の学校など、哲学が大学制度から解放される確かな兆候がある。また、ユネスコは第二次世界大戦後、あらゆるプロパガンダ、不寛容、排除、暴力などに対抗し平和に貢献する、開かれた批判的思考、態度、生き方として哲学を推奨してきた。
そのうえで、望月氏は、国際哲学コレージュは「北(西欧を中心とする先進諸国)」の哲学的実践にとどまるのであり、「南」への眼差しに対する応答がなされているのだろうか、と問うた。「南」への眼差しに開かれたときに、はじめて哲学は解放されるのだ。
望月氏によれば、哲学への権利が可能となるためには、現実のデモクラシーが必要である。そして、哲学もデモクラシーも効率の悪い時間がかかる営みである。その意味で、哲学の活性化に必要なものは潤沢な資金ではなく、社会における余暇的な時間、すなわち、立ち止まって思考する時間なのである。
斎藤氏は哲学の活動実践は必要だが、他方で哲学史を学ぶことも必要であるとした。なぜなら、哲学史を通じて、かつて自明ではなかったことが自明になっていることを歴史的に確認できるからだ。人間の思考が歴史を通じて変容することの考察もまた、実は哲学の今日的な実践と深く連関するのである。
2010/02/09 神戸大学(松葉祥一、中畑寛之)
2010/02/09 神戸大学(松葉祥一、中畑寛之)
朝、大阪の宿を出て神戸へ。車窓からは山と海に挟まれた街並みが見えてくる。2010年2月8日、神戸大学にて松葉祥一(神戸市看護大学)氏、中畑寛之(神戸大学)氏とともに上映会がおこなわれた(70名ほどが参加)。
松葉氏は、68年5月の革命的出来事とパリ第8大学の実験的精神が国際哲学コレージュの歴史的背景をなしていることを自身の体験談を交えながら指摘した。パリ第8大学は学位互換なしに外国人の入学を認めたり、バカロレア(大学入学資格)のない者にも門戸を開いていた。これに対して、なぜ日本の68年はこうした開放的な形で継承されなかったのか。
(松葉祥一氏、中畑寛之氏)
また松葉氏は、美的なもの(イメージ)と政治的なもの(メッセージ)の関係について、前者を後者に従属させる危険性を指摘した。本作が映画なのか、メッセージ集なのか。たんにテクストを読めばよいものを映像化しただけなのか。そうではないとすれば、本作は映画として何であるのか、と本質的な問いを提起した。
中畑氏は、教える側の立場のみならず、学ぶ側の立場もまた映像に残すべきだったのではないかと問うた。
上野成則(神戸大学)氏は、「コレージュに関する外在的な問題しか描かれていないのはなぜか。学ぶ側や対抗者の言葉もまた挿入した方がよい」と指摘した。続いて、市田良彦(同前)氏は、むしろコレージュの「問題」は本作に十分に描かれていると言葉を継ぎ、各インタヴューイーがモノトーン的に並べられることへの強い違和感を表明した。自身がコレージュで教鞭をとった経験を踏まえて、近年のコレージュが閉鎖的な傾向にあると述べた。
2月4日の筑波に始まり、大阪―京都―大阪―神戸と6日間移動しながら、6回のイベントが終了した。各地の主催者の尽力のおかげで、連日、予想以上の盛会となった。大学教師と学生のみならず、さまざまな方が参加され、懇親会にも残ってくれて楽しい時間を過ごすことができた。また、巡回中には何回も足を運んでくれるリピーターも少なくはなく、毎日一緒に移動しているかのようだった。関西では歯に衣着せぬ批判的な意見を聞くことができて、こちらとしても大変な成果があった。本作の課題と限界が明瞭になり、討論の幅も広がったのである。今後も上映・討論会が続いていくが、あらためて身を引き締めてひとつひとつ実施していきたい。