映画へのメッセージ
映画「哲学への権利」へのメッセージ
国際哲学コレージュはその創設以来20年以上にわたって、私たちの世界の知の総体、思考の総体に領域横断的に関わるような、従来の哲学観を大きく乗り越える「哲学」の実験と交流の場であり続けてきた。国際哲学コレージュにおいては、「世界のヴィジョン」や「システム」としての「哲学」はその時代を終える。なぜなら、もはや世界はイメージや概念によって容易く把握されはしないからだ。国際哲学コレージュが受け入れてきた数々の革新は、根底的に変容しつつある世界へと思考をたえず開いてきた。この意味で、映画『哲学への権利』は「世界を変化させる」作業に対するきわめて貴重な貢献である。マルクスの表現を借りれば、こうした変化の端緒が開けるのは、「世界」が意味するものの「解釈」を通じて、それゆえ、「国際」や「哲学」が意味するものの解釈を通じてなのだから。
――ジャン=リュック・ナンシー(ストラスブール大学名誉教授)
Le Collège International de philosophie aura été, depuis sa fondation il y a plus de vingt ans, un lieu d'expérience et de communication de ce qui, sous le nom de "philosophie" va bien au-delà de la discipline reçue sous ce nom et concerne de manière transversale tout le savoir et toute la pensée de notre monde. La "philosophie" comme "vision du monde" ou comme "système" y a fini son temps, parce que le monde ne se laisse plus prendre dans une image ni dans un concept. Les innovations acueillies par le CiPh n'ont pas cessé d'ouvrir la pensée à ce monde en profonde mutation. Le film de Yuji Nishiyama est donc une contribution très précieuse au travail de "changer le monde" car ce changement commence - pour continuer à citer Marx mais en le détournant - dans l'"interprétation" de ce que "monde" veut dire. Donc aussi de ce que veulent dire "international" et "philosophie". ―Jean-Luc Nancy, professeur émérite à l'Université de Strasbourg
映画『哲学への権利』は過去の映画ではない。国際哲学コレージュの未来を切り開く、計り知れない価値をもつドキュメントである。現在の世界における哲学の状況を問いながら、本作品が描き出すさまざまな方向性は、間違いなく、未来の思考にとっての重大な指針となるであろう。それは、問いに対して自らを開放しておくこと、グローバル化時代における理論や批判の場所、制度や大学の余白における知的交流の必要性である。躍動感溢れるこの見事な映画は、責任ある証言とは何であるべきか、その核心を描き出している。
――カトリーヌ・マラブー(パリ第10大学准教授、国際哲学コレージュの元プログラム・ディレクター)
Le film de Yuji Nishiyama n'est pas un film du passé. C'est un document de valeur inestimable qui ouvre un avenir au Collège International de Philosophie. En interrogeant la situation de la philosophie dans le monde, ce film dessine les orientations de ce qui devrait être l'orientation majeure d'une pensée du futur : l'ouverture au questionnement, la place de la théorie et de la critique à l'âge de la globalisation, la nécessité d'un échange intellectuel en marge de l'institution et de l'université. Beau et vivant, ce film incarne l'essence de ce que devrait être un témoignage responsable. ―Catherine Malabou, maître de conférences à l'Université de Paris X, ancienne directrice de programme au CIPh
映画『哲学への権利』は、つねに危機に曝される貴重で独創的な制度「国際哲学コレージュ」を描いた見事な映画である。西山雄二監督が国際哲学コレージュの関係者におこなうインタヴューは詳細で有益なもので、きわめて興味深い瞬間が何度も引き出される。とりわけ、ミシェル・ドゥギー、カトリーヌ・マラブー、フランソワ・ヌーデルマンのインタヴューは見応え十分である。その生涯において国際哲学コレージュと関係する人々にとって、本作はノスタルジアと希望を喚起する。また、国際哲学コレージュに馴染みがない人々の好奇心をも大いに駆り立て、制度の本質をつねに問い続けるこの制度に没頭させるにちがいない。
――サイモン・クリッチリー(ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ哲学科学科長、 国際哲学コレージュの元プログラム・ディレクター)
This is a wonderful film on a precious, unique and constantly threatened institution. Yuji Nishiyama's interviews with protagonists of the CiPh are detailed and informative and elicit some extremely entertaining moments. Of particular merit are the interviews with Michel Deguy, Catherine Malabou and François Noudelmann. For those of us with a biography entangled with the CiPh, Nishiyama's movie provokes both nostalgia and hope. For those unfamiliar with the CiPh, it should arouse great curiosity and engagement with an institution that constantly question the nature of institutions. ―Simon Critchley, Chair of Philosophy, New School for Social Research and Ancien Directeur de Programme, College International de Philosophie (1998-2004).
西山雄二監督が製作した『哲学への権利』は、数多くのコンテクストへと開かれた見事な映像ドキュメンタリーであり、多種多様な角度からの鑑賞が求められる、哲学に関するたぐい稀な映画である。国際哲学コレージュの関係者に対する西山氏のインタヴューを聞きながら、鑑賞者はヨーロッパや西洋といった狭い境界の外で哲学について考えるように誘われる。映画という媒体を用いて、西山氏は、現代の哲学が引き受けるべき責務を、西洋と非西洋という言説を乗り越えた世界を体現するという現代の哲学の責任を私たちにはっきりと思い出させてくれる。
――酒井直樹(コーネル大学教授、『トレイシーズ』編集主幹)
Yuji Nishiyama created a wonderful cinematic documentary open to many contexts, an exceptional film about the topic of philosophy that demands a viewing from multiple angles. His interviews with the faculty members of the Collège International de Philosophie solicits the audience to think of philosophy outside the narrow confines of Europe and the West. Through the cinematic medium, Nishiyama succeeded in reminding us of the task that contemporary philosophy is expected to undertake, of its responsibility to be of the world beyond the discourse of the West and the Rest. ―Naoki Sakai, professor at Cornell University, and founding senior editor of Traces, a multilingual series of cultural theory and translation.
国際哲学コレージュに関する映画『哲学への権利』は真の意味できわめて教育的価値の高い作品である。歴代の議長や新旧のプログラム・ディレクターたちの異なる視座が交互に編集されているので、一般の観衆も、ジャック・デリダらが1983年に創設したこの独創的な制度のことを理解することができる。私たちはそして、ある形で実現されたユートピアとでも表現されるものへと誘われていく――あらゆるひとに開かれた場所、活気ある研究と創造のための場所として構想され、既存の知や学問分野の領域交錯(インターセクション)を問う国際哲学コレージュへと。インタヴューを聞きながら、私たちはコレージュが存生し、思考し、進化する姿を目の当たりにする。また、コレージュが現在、いかなる問題、いかなる危機に直面しているのかも示される。それは、このグローバル化の時代に、研究機関がどこか平準化されていくこの時代に人文学が直面している問題と危機でもある。いかにしてコレージュはその特殊性を擁護することができるのだろうか。独創的なこの研究機関はいかなる歴史をもつのだろうか――これが本作品で浮き彫りになる問いである。西山監督は異なる視点の対話を編集し表現することに成功しているが、これは、この比類なき制度の根幹を鼓舞し続けてきた対話の精神にほかならない。
――ジゼル・ベルクマン(国際哲学コレージュの現プログラム・ディレクター)
Le film réalisé par Yuji Nishiyama sur le Collège international de philosophie est d'un très grand intérêt pédagogique, au sens vrai du terme. Par le biais d'un montage alterné qui permet d'accéder aux points de vue divers d'anciens présidents du Collège, mais aussi d'anciens directeurs de programme et de directeurs en exercice, il permet à un large public d'accéder à l'intelligence de cette institution singulière qu'est le CIPh, co-fondé en 1983 par Jacques Derrida. Nous entrons, à sa suite, dans ce qu'est, en quelque sorte, une forme d'utopie réalisée: à savoir, le Collège, pensé comme un lieu accessible et ouvert à tous, comme lieu d'une recherche et d'une création vivante, attachée à questionner les intersections des savoirs et des disciplines constitués. Au fil des interventions, on voit vivre, penser, évoluer le Collège. On perçoit également quels problèmes, quelle crise il traverse actuellement, crise qui est aussi celle des humanités à l'ère da la globalisation et d'une certaine standardisation des organismes de recherche. Comment le Collège pourra-t-il défendre sa spécificité? Qu'est-ce que l'historicité d'une institution de recherche originale? Telle est aussi la question qui se profile dans ce documentaire. Le réalisateur a réussi, par le montage, a transmettre le dialogisme des points de vue, inséparable de l'esprit de dialogue vrai qui a inspiré la fondation de cette institution sans équivalent. ―Gisèle Berkman, directrice de programme au CIPh
デリダの弟子であるカトリーヌ・マラブーなどが喋っている映像を見ていると、デリダ的精神がどういう形で血肉化して生き継いでいるかということが具体的に見えてくる。この映画ではデリダの魂がまさに制度として生き継いでいることがわかって、力強いというか、少し胸が熱くなる思いがした。
――東浩紀(批評家)
デリダが柔軟かつ強靭な精神でつくりあげた国際哲学コレージュはまさにひとつの奇跡。映画「哲学への権利」はこのきわめて特殊な研究教育機関に関する記録であると同時に、教育とは何か、人文学はいかにあるべきか、その理想形を考える上での参照点となる。
――佐野好則(国際基督教大学上級准教授)
今日、広い意味で、「哲学をすること」はどんな可能性をもちうるのか。私たちが生きていく上で何かを考えざるをえない、何かが考えることを迫ってくる、そんな思考の経験をいかに表現すればよいのか。大学や出版が危機に曝されている現代において、私たちが自分の思考や言葉を表現しようとするときに直面する宿命的な問いが本作では描き出されている。
――岩崎稔(東京外国語大学)
久しぶりに真に「興奮する」映画を観た。映像や音楽の美しさ、身体性のひらめきが抜群で、何よりも、私たちを「活動」へと誘う映画である。Excellent ! Grand merci !
――本橋哲也(東京経済大学)
哲学について希望が語られる場面、哲学が何らかの希望を語る場面を久しぶりに目の当たりにした。
――熊野純彦(東京大学)
哲学へとアクセスする権利は誰にあるのか。そもそも哲学とは何か。経済原理に還元されえない価値を、哲学や人文学はどう提示できるのか。タイトルそのままに映画は国際哲学コレージュの問いを問い、私たちを深い思考の旅へと誘う。
――中村富美子(「週刊金曜日」2010年2月5日号映画評より)
哲学の旅――『哲学への権利』を観る
西山雄二さんのドキュメンタリーフィルム『哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡が今、全国を巡っている――彼とは、哲学と大学、旅など多くのテーマが共通するのだが、それは措こう。私もようやくそのフィルムを観ることができたので、ここにその印象を、まだ観ていない人のための配慮を施しつつ、ごく簡単に記しておくことにする。
1)表現手法の旅
まず、独りの思想・文学研究者が制度についてのドキュメンタリー映画を撮ってしまったという事実に単純に驚いてしまう。イマージュや映像を文学研究の対象とすることはもはや研究の一ジャンルとして確立したが、自分がイマージュや映像を主たる表現媒体として研究成果を発表しうると、実例をもっていったい誰が示しえただろうか。たぶん前例はほとんどない。
国際哲学コレージュ(CIPh)というフランスの一高等教育制度についての考察を思想研究者が映像化することにどんな意味があるのか。Bruno Clémentはインタヴューの中で、デリダがCIPhを創設した精神はCIPhに「意味sens」ではなく、「奥行き、立体感relief」を与えてきたと述べていたが、インタヴューの内容だけでなく、インタヴューされる者たちの顔、身振り、手――握手を交わす手と手――の映像はまさに、CIPhの活動の「意味」ではなく、「奥行き」を観る者に与える。
思想研究はどこかの時点で必ずエクリチュールを通過するとしても、エクリチュールが最終地点であると誰が決めたのか。表現手法がイマージュや、さらには行動であっていけない決まりはどこにもない――フランソワ・シャトレが自らを「哲学のプロデューサー」と規定し、盟友ドゥルーズがその「プロデューサーの哲学」を興味深い形で引き出してみせたことを思いだしておこう(拙ブログ「pratiques théoriques」2009年1月26日付「哲学のプロデューサー、プロデューサーの哲学」、27日付「プロデューサー目線」、また『思想』ベルクソン生誕150年特集(2009年12月号)の132頁を参照のこと)。
映像(イマージュ)はこうして「奥行き」とともに、ごく限られた専門家だけでなく、広く一般の聴衆を哲学と制度の問題の考察へと導くことに役立つ。嘘だと思うなら、一度この映像を見てみればよい。そして自分の書きものが達しうる読者層と較べてみるとよい。『哲学への権利』は研究手法において、思想・文学研究の表現方法において実験的な旅を試みている。いや、「実験的な旅」とは冗語的にすぎよう。実験(experiment)の語源が「貫く」を意味するギリシャ語peíreinに由来する以上、その名に値するほどの「旅」は、常にすでに幾分か「実験」であるのだから。
2)表現内容・表現主体の旅
次に、『哲学への権利』が、決して単なる「お説拝聴」のドキュメンタリーに終わっていないことを強調しておこう。一日本人思想研究者が対等にCIPhの中心的なメンバーたちに問いかけ、この特異な制度の長所だけでなく、「問題点Les problèmes」をも引き出しえている。これはとりわけ、従来の日本の、とりわけ現代思想系の研究者たちに見られなかった姿勢である(最終セクション「CIPhとデリダ」は、あるいはさらに突っ込んでもよかったかもしれない)。
この作品はCIPhという制度が描いてきた「軌跡traces」、その「奥行き」を、限られた「手段moyens」(限られた時間・資金、限られたテクニック・言語能力など)で辿り直すことによって、日本の思想・文学研究全体が辿ってきた軌跡や奥行きをも逆照射する一種の「旅」である。私たち思想研究者はこの映像を、自分自身の辿ってきた軌跡や奥行きとひき比べることなしに、決して他人事としては見られないだろう。
3)上映運動という旅
最後に強調しておくべきは、『哲学への権利』が単なる一映像作品の名ではなく、西山雄二という恐るべき行動力を発揮し続ける個人がその映像作品をもって、日本全国のみならず、世界各国を巡回する運動そのものの名であるということだ。前出のBruno ClémentがCIPhはデリダの諸著作と同じように彼のoeuvre(作品)の一つである、と述べていたが、全世界に散らばる友人や知人のネットワークを駆使して織り上げられた上映運動としての『哲学への権利』もまた、西山雄二のoeuvreだと言える。
だが、さらに一歩を進めてこう言うことに西山はきっと反対しないはずだ。そうではない、人々を貫き、人々をつなぐ『哲学への権利』という映像作品および作品上映運動――握手する手と手――は、おそらくは西山雄二という個人から出発したのではないし、CIPhという運動自体すら、おそらくはデリダから出発したのではない。デリダをも貫いて流れ来たった力、思考の力の旅こそがoeuvreの真の「作者auteur」なのであり、これこそ「哲学」にほかならないのだ、と。
インタヴューの中で、François Noudelmannは、デリダに敵対的な思想的ポジションをとる人たちをも積極的にCIPhに迎え入れることをデリダが繰り返し強く勧めていたと語り、それをデリダがcontre-signatureという概念で表現していたと述べていた。公式の文書により多くの正当性を与えるためになされる「副署」であると同時に、文字どおりには「反対の意を表しつつサインする」ことをも意味しうるこの語こそ、CIPhを表現し、またCIPhをめぐる映像作品である『哲学への権利』、そしてその上映運動を表現するのに最も適した語であるかもしれない。
デリダに何の関心もなく、むしろ彼の諸著作を真剣に読んだこともなく毛嫌いしている人々、CIPhと聞いただけでデリダ派の牙城と考えてしまう人々、哲学と制度の関係についてあまり考えたことのない「職業的」哲学者たちこそ、各地の大学で行なわれている上映会をぶらりと観に行かれるべきであろう。その身振りこそ、今まさに動きつつある現代世界の思想に必要なcontre-signatureの一つであろう。
――藤田尚志(九州産業大学講師)