Limitrophe(リミトロフ)
東京都立大学・西山雄二研究室紀要
ISSN 2437-0088 (刊行元:東京都八王子市南大沢1-1 東京都立大学人文科学研究科 西山雄二研究室)
No. 7、2025年、全124頁
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特集 ルイ=フェルディナン・セリーヌ(責任編集=森澤友一朗・杉浦順子)
森澤友一朗「序文」 p. 1
森澤友一朗「ツケまみれのセリーヌ── 「なしくずしの死」三部作としての『戦争』、『ロンドン』」 p. 5
有田英也「海と戦争 —— セリーヌ未定稿「戦争」に見る感情とイデオロギー」 p. 22
杉浦順子「セリーヌの「伝説」」 p. 37
彦江智弘「ルイ=フェルディナン・セリーヌの工学的エクリチュール ── セリーヌとル・コルビュジエのアメリカ」 p. 55
ミカエル・フェリエ「セリーヌ ── プルーストとペレックの間で」 p. 73
ルイ=フェルディナン・セリーヌ 略年譜(森澤友一朗) p. 98
ルイ=フェルディナン・セリーヌ 主要文献一覧(杉浦順子) p. 106
序文 森澤友一朗
2021年8月、「世紀の文学史的事件」と鳴り物入りで喧伝された、ルイ=フェルディナン・セリーヌの遺稿の「発見」から、この序文を執筆している2025年1月現在、およそ3年半の時間が経過した。まだ、というべきか、もう、というべきか。編者の率直な実感としては、やはり、まだたったの3年半前の出来事であったのかという思いの方が圧倒的に強烈である。この間のセリーヌをめぐる状況の遷移は、ことほどさように濃密であったからである。ときにodyssée(オデュッセイア的遍歴)とまで形容される、これらの草稿のいかにもセリーヌらしい数奇な来歴については、本論集所収の複数の論文においても注で推奨されているとおり、共編者の杉浦順子による、その後の経緯や内容分析まで含め詳細かつ的確な整理がなされた論文があるので(「ルイ—フェルディナン・セリーヌの発見された草稿をめぐって」、『広島修大論集』第65巻第1号、2024年)、ぜひともそちらを参照していただくとして(あるいは入手の便を優先するならば、拙訳『戦争』(幻戯書房、2023年)の訳者解題にも簡単にまとめてある)、「発見」後の矢継ぎ早の出版状況だけをあらためて書き出せば、以下のとおりである。
2021年8月、『ル・モンド』紙にて「発見」の第一報――2022年5月、『戦争』刊行――同年10月、『ロンドン』刊行――2023年4月、『クロゴルド王の意志・ルネ王の伝説』刊行――同年5月、プレイヤード新版(全4巻)、およびその付録として解説つき写真集『アルバム・セリーヌ』刊行――同年10月、『戦争』フォリオ版刊行――2024年9月、『ロンドン』フォリオ版刊行。
こうしたハイペースの出版は、同時に古典作家としてはたぐいまれな売上を実際に伴ってもいて、上記の出版物を総計すれば現在までですでに30万部を大きく越える販売部数に上るとのことである。その露骨なまでのガリマール社による売らんかなの販売戦略は、今回、たびたび槍玉に上げられもしたわけだが、一方であくまで未完成の草稿にすぎないこれらの諸作品(作品とは何かと問い始めればあらずもがなの問答に深入りすることになりかねないので、ここではひとまず作品と呼ぶとして)が、多くのセリーヌ初読者によって総じて好評のもとに迎えられたことも、書評サイトなどの評を見れば明らかな事実であり、また出版ラッシュの一息ついた現在も雑誌やテレビ、ラジオ、YouTube等での特集は止む気配がない。
こうした点を踏まえれば、セリーヌの死後の生がいくつかのエポックに区分されうるとしたときに、今回の「発見」が大なり小なり新たな画期を形づくったことだけはどうやら間違いないとしてよいようである。さて、いま、「死後の生」と記した。これは宮崎裕助がジャック・デリダの鍵概念survieの訳語として、近年その分析の要としている語彙でもあるわけだが(『ジャック・デリダ――死後の生を与える』岩波書店、2020年)、考えてみれば、この多様な意味論的広がりを包含するsurvieの語ほど、セリーヌの文学的営為の総体と共振する語も少ないように思われる。それは、作家の没後60年以上の時を経てもなおそのスキャンダラスさは「生きたままでありsurvivre」、現代の世界に取り憑いているのだといった比較的よく耳にする言説には留まらない。見やすいところでは、総力戦による死の遍在からひとはいかに「生き延びsurvivre」うるのかといった彼の全小説を貫通する主題論的側面はもちろんのこと、多くの親炙した人物たちの死後を「生きながらえsurvivre」てきた結果、『なしくずしの死』の有名な書き出しに見られるごとく「われわれはこうしてまたひとりNous voici encore seuls.」であることが明らかとなった存在論的状況における、いうなれば複数形の単独者が死者たちと取り結ぼうとする証言の文学としての側面にも及んでいよう。さらには自身の言語の強みを、他の終始死んだままの言語たちと比較した場合に、「やがて振り返れば、たとえ一年間であれ一ヶ月間であれ一日の間であれ、かつて一度は生きたことになるであろうils auront un an, un mois, un jour, VÉCU」点に求める(1936年5月24日、アンドレ・ルソー宛書簡)彼であってみれば、あの唯一無二の文体にはその都度の誕生に先立って、いわば「死後の生survie」があらかじめ裏面にぴたりと張り付いてあるのだと考えてみることも決して穿った見方だとは言えるまい。
と、このようなことがつらつらと頭をよぎりゆくのも、編者自身が現在、長大な『ロンドン』の翻訳を何はともあれ最後まで終えたところであるという個人的事情も大きく手伝っているのかもしれない。というのも、死後のオデュッセウス行を経て思わぬ陸地へと乗り上げた――そこに果たしてまたいかなる新たな一つ目妖怪(キュクロプス)が潜んでいるのかはいざ知らず――このたびの草稿群にあって、『戦争』の続編的位置づけともなる本作品こそは、他のあらゆるセリーヌ作品にもまして、まさしく初めから終わりまで「亡霊たち」を主題とした作品であったからである。霧の都に跳梁する戦前の亡霊たちを描くにあたって、いかなる新たな文体を発明しうるのか、そうした彼のこの中絶した試みにがっぷり四つで取り組むなかで、いきおいこちらまで奇妙に高揚した憑依の感覚を一再ならず覚えさせられもしたものである。
いずれにせよ、こうして彼のsurvieに遠く海彼の地からさまざまなかたちで参与するわれわれであるわけだが、なににもまして今回、このような特集号を刊行できたことは、まことに慶賀の至りであった。思えば、セリーヌの論集の出版自体、本邦では、本論集にも寄稿している有田英也が共編集を務めた1998年の『セリーヌを読む』(富山太佳夫共編、国書刊行会)以来、実に27年ぶりのことである。本誌出版をご提案いただき、ほかならぬ貴重な機会を提供していただいた東京都立大学の西山雄二氏には、心からお礼を申し上げる次第である。
本誌はまず、以下の学術的催事を出発点としている。内容は、『戦争』を中心としたセリーヌの文学の概説的なもので、現在もYouTubeにて視聴可能である(URL : https://youtu.be/VHBYOWq4xtI)。
「前線と銃後のあわい──ルイ=フェルディナン・セリーヌ『戦争』を読む」
2024年5月31日 東京都立大学
発表:森澤友一朗 コメント:杉浦順子、八木悠允 司会:西山雄二
主催:東京都立大学西山雄二研究室
助成:東京都立大学・学長裁量経費「「あわい」をめぐる日本とヨーロッパの比較文化研究の双方向的展開」
21世紀に入ってからは、散発的な出版──たとえば共編者の杉浦順子翻訳のフィリップ・ソレルス『セリーヌ』(河出書房新社、2011年)や木下樹親『セリーヌの道化的空間』(九州大学出版会、2008年)など──を除けば表向きにはほぼ沈黙に近かった日本のセリーヌをめぐる状況であるが、上記のイベントが機縁となり、本論集参加者による日本仏文学会でのワークショップも昨秋開催されるなど、にわかに再沸騰の機運は高まりつつある。また、今回翻訳で参加した今野建をはじめ、若手のセリーヌ研究者がちらほらと誕生しつつあるのもとりわけ喜ばしいことである。本論集所収の各論文に目を通していただければ明らかであろうが、六十年代とも九十年代とも異なった、セリーヌへの新たな視角が多方向から生まれてきており、編者としてもこの流れが今後さらなる刺激的な言論状況、研究状況へと発展してゆくことを願ってやまない。
最後に本特集の内容を概括的に確認しておこう。論文の総数は計五点と決して多くはない。しかしながら、今回の「発見」にまつわる論文を主としつつ、その他にもこれまでにない視点からの分析のものばかりで、全体として多彩かつどれも充実したものが出揃ったように思われる。
まずこのたびの草稿群に関する論文を先に配置したが、それぞれの内容について簡単に触れれば、森澤は、自身が翻訳も行った『戦争』、『ロンドン』に対して、両作品の中心を貫通するテーマとして「負債」にまつわる問題系を見出し、作中におけるそのエコノミーについて分析を行った。続く有田英也の論文は『戦争』を真正面から扱ったものであり、そこでは『夜の果てへの旅』を横に並べることで、戦争をめぐる感情とイデオロギーの諸相が各場面から逐一丹念に取り出されていく。杉浦順子は「クロゴルド王伝説」を構成する二つの草稿を中心に、これらのテキストが他の小説で再利用される際のその手つきについて緻密な分析を重ねていくとともに、セリーヌの北方への執着の意味するものをも解き明かし、そこに彼のもうひとつの闘争の線を浮き彫りにしていく。
以上の三者三様の論述を通して、このたび日の目を浴びた草稿群の多面的な相貌に触れることができようかと思われるのだが、続く二者の論考は意想外でありつつも本質的な角度からのセリーヌ像をそこに重ね合わせてくれるものとなっている。まず、セリーヌ研究から出発しつつも現在は都市論に関心の中心を置く彦江智弘は、セリーヌの文体の都市工学的側面に焦点を定める。同時代のル・コルビュジエの都市計画と対比しながら、両者の錯綜した都市への眼差しを解きほぐしてゆくなかで、最終的にはセリーヌにおける地下という特権的トポスの位置づけが試みられる。
掉尾を飾るのはミカエル・フェリエだが、彼のセリーヌ論を日本語で紹介できたことは本論集のひとつの大きな成果であろう。ともすると日本では『フクシマ・ノート』を中心とした小説家としての顔ばかりが知られているやもしれぬが、セリーヌ研究の領域においては、この作家の音楽への異様なまでの愛着を考察するときには欠くことのできぬ研究書『セリーヌと歌謡』の著者でもある。今回の論考では、いまや二十世紀フランス文学の二大巨頭としての並置が定着した感のあるプルーストとセリーヌの両者の文学世界の比較に始まり、それを引き継ぐ流れでの後半においてはもうひとりの巨人、ジョルジュ・ペレックがセリーヌに対抗して自身のエクリチュールを築き上げてゆく仔細が詳らかに解明される。
以上、五点の骨太の論考群に加え、巻末には森澤による略年譜、ならびに共編者の杉浦による文献一覧も掲載することができた。特に後者については、本邦に類似のものは存在しないはずで、後進の研究者にとっても、今後、大いに頼りがいのある道標となるのではなかろうか。
以上、こうした学術誌の編集にはとても適任とはいいがたい編者ではありながら、いずれ劣らず鋭敏にして練達の参加者たちに恵まれたことで、日本においてもセリーヌの「死後の生survie」に関してひとつの画期となりうる充実の論集が仕上がったものと確信している。力作揃いの論文を執筆していただいた執筆陣、編者のまことに力足らずな部分を陰に陽に補っていただいた共編者の杉浦順子氏、ならびに論集出版を実現していただいた東京都立大学・西山雄二研究室にはあらためてお礼を申し上げたい。