フランス在外研究 (2017−18年)
2017年8月から2018年8月までの1年間、フランス・パリにて在外研究をおこないました。郊外のBoulogne-Billancourt市内中心部に家族で住み、フランス国立東洋言語文化大学(イナルコ)の日本学センターに所属して、研究活動に従事しました。以下、フランスの文化や研究教育に関する滞在記を残しておきます。
四季折々
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9月、新年度新学期が始まり、夏休みの終わりを締めくくる花火大会が近所のサンクルー公園であった。日が暮れるのが20時なので、21−23時の実施。夜は寒いので、みんな着込んで我慢して観覧。浴衣姿での夏の花火という日本の感覚からは奇妙な風景。公園内では10000−4000円で、A席から芝生席まで用意されている。ただ、離れた橋の上からもタダで見られるし、十分にすいている。フランスの花火は、17世紀に国王の婚礼を祝って中国花火を打ち上げて以来の伝統らしい。期待していなかったが、予想以上に綺麗な芸術的な花火だった。
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フランスと言えば、マルシェ。ブーローニュ市には2カ所に大きな市場が立つ。100件以上の店が並び、みんな新鮮な食材を求めて買いに来る。いわば、毎週街中に屋台が出現するようなもので、友人や顔見知り、ご近所さんとの出会いの場にもなっている。市議会議員もテントを出して、市民と交流の場を設けている。
フランスでは12月になると、クリスマス・マーケットが多くの広場で開設される。日本の夏の屋台感覚、だが、冬なので寒い。必ずしもクリスマスにちなんだ商品が並ぶわけではないけれど、雰囲気を盛り上げるのに大いに一役買っている。サンタのおじいさん、メリーゴーランドや汽車の乗り物、クレープとガレットとホットワイン、聖人人形、ヌガーのお菓子など。ラ・デファンスの巨大なマーケットはこの日曜日多くの人で賑わっていた。
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ロシアからの寒波が続くフランスでは、南仏でさえ雪景色となる異常気象。パリでも最後の冬将軍とばかりに、朝方に雪が積もった。
フランスにも桜の木はちらほらと植わっている。パリ周辺でもっとも有名なのは南の郊外のソー公園。庭園あり、池ありの広大な敷地面積だが、まんなかに桜の木々がある。満開の日曜日、本当にたくさんの人々が花見を楽しんでいた。中国人と日本人が多いが、親アジア的なフランス人が着物を着たりもしている。日本のマナーとは異なり、桜の枝を折る、枝を揺すって桜吹雪にして自撮りをする、など、みなさんの行動は野性的。園内では太鼓演奏が鳴り響き、どこの国でもない桃源郷的な雰囲気。
5月、ローラン・ギャロス全仏オープンテニスを観戦してきた。会場は我が家の近くで、バスで15分。三つのメインスタジアムは指定席で高額だが(1−10万円ぐらい)、それ以外のアネックス・コートでの試合は格安。私たちは夕方の入場券でひとり15ユーロ(2000円)。観戦したのは、世界ランク10位のアメリカ人JOHN ISNERと87位のフランス人PIERRE-HUGUES HERBERTさんの試合。夏の日差しを感じる暑さのなか、緑が綺麗に映える季節にこのテニスの祭典が開催されるのはベストマッチ。子供から老人までが気軽に観戦しているお祭り的な雰囲気で、テニスに何の関心もない私たちでも楽しかった。
7月、パリから電車で1時間の街シャルトルを訪れた。シャルトル・ブルーとして名高い大聖堂が有名で、結婚式に出くわし、日曜ミサにも参列できたが、今回の目的はライトアップ鑑賞。4月から10月まで、大聖堂壁面はもとより、市内20箇所がプロジェクションマッピングされる。広場でコンサートが21時に始まり、日没が22時、22時30分から深夜1時までがライトアップの時間になる。世界遺産でもある大聖堂の入場、毎晩のライトアップ、コンサートなど、上質な文化経験がすべてが無料なのはありがたい。
予想していたよりもかなり感動的で、メインとなる大聖堂正面では、ロマネスク様式とゴシック・フランボワイアン様式で異なる二つの塔に即した演出がかえって趣深い。薔薇窓部分が太陽になったり、小人たちがアクロバティックな動きで大聖堂を建築したり、星が流れ花が舞い、ろうそくの炎で照らされ、荘厳なレンガ色から勇壮な青色へ、氷のようなマチエールから線描的な表現まで、15分ほどの上演は圧巻だった。
7月の革命記念日前後、フランスは大きなドラマを経験した。金曜はエッフェル塔の花火。世界各地の花火イベントを手がける花火師集団がグループFが演出し、テーマは「愛」。塔から、セーヌ河から、仕掛けられた花火ショーが30分間続く。日本の花火と大きく異なるのは、音楽と連動していることで、総合的な演出がなされている。
翌14日土曜日は革命記念日のパレード。そして、翌日曜日はワールドカップでフランスが優勝を果たし、街中が朝まで野蛮なドンチャン騒ぎだった。
再び夏がやって来た。ルーブル美術館前のチュイルリー庭園の一角には即席の遊園地が設置され、観覧車や水流コースター、メリーゴーランドなどが派手な色使いで木々の緑色を賑やかに彩る。7−8月の夏休み中、セーヌ河沿いの車道は封鎖され、砂浜気分を味わう「パリ・プラージュ」が開催され、人々はのんびりした時間を過ごしている。1年間のパリ滞在はあっという間で夏から夏へとひとっ飛びでワープしたかのように感じられた。
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高校見学
友人ジェローム・レーブルが教鞭を執るエレーヌ・ブーシェ(Hélène Boucher)高校にて、5週間ほど哲学などの授業を見学した。
フランスの高校で哲学は必修科目で、大学入試にも4時間の小論文形式で出題される。今回お邪魔したのは、グランゼコール準備学級文系1・2年生クラス。1年生クラス、哲学科目のテーマは「真善美」。冒頭に指名されて、日本語でのこれら言葉の説明を求められた。漢字の語源的解説をして、西洋哲学の伝統的ににおけるように、真善美は必ずしもセットになっていないと語った。
授業は2時間で、テクストはない。授業運営は各教師に任されており、ジェロームも準備した内容をすべて口頭で説明する。まるで大学の講義さながらで、学生らはすべてノートに転写する。ときおり質問を投げかけると手を上げて答えが返ってくるし、先生が話していても学生らは積極的に質問する。これは日本の教室から失なわれてしまった光景。前方の席の学生はむしろ熱心で、後ろの方の席では私語も多い。このあたりは日本と同じ。
準備学級文系クラスの哲学授業、論文執筆の方法論は興味深かった。例題は、「理性はすべてを克服するのか? La raison a-t-elle raison de tout?」
まずやるべきことは、意味の切れ目ごとに、類義語と反対語を列挙して、発想を展開していくこと。「理性La raison」に対して、学生らが次々と答えを出していく。論理、概念、真理、普遍、客観性、計算、精神、などで、反対語は、狂気、感情、欲望、無関心、など。
つぎに「克服するavoir raison de」は、打ち勝つ、勝る、説明する、理解する、論証する、で、反対語として、妥協する、譲歩する、など。最後に、「すべてtout」は、総体、統一、徹底性、無限、世界などで、反対語は、無、限界、説明できないもの、など。
首尾一貫していなくてもいいので、ともかく連想を最大限に膨らませて、関連語のネットワークを出していく。次に、同じものを削除して、語を絞っていく。そして、今一度、問題文の含意を考え直す。「克服する」とは、どのような仕方で、いかなるニュアンスで「克服する」という意味なのか。
哲学の論文(受験用)で重要なのは、課題problèmeや質問questionではなく、問題提起problèmatique。単純な答えに帰着するような問いではなく、両立しえない二つの道の緊張状態を提示することが肝要とされる。たとえば、自由と必然、国家と個人、科学と信仰、というように。「私はつねに自由だろうか」という命題が出されたら、これを光源として、自由/必然という地平を描き出し、そこにさまざまな言葉をちりばめていく。
印象的だったのは、この思考作業を「Analyse automatique 自動的な、反射的な、機械的な分析」とさらりと呼んでいたこと。フランス語からその論理をくみ取り、「自動的に」こうした概念ツリーを導き出す能力だ。考え込むのではなく、あくまでも、日常的なフランス語に即して、論理を反射的に組み立てていく練習。日本の教育にはない訓練で、しかし、こうした概念での思考はビジネスや役所の現場でも必要なことだろう。
高校3年生文系クラス「哲学」の授業も見学した。高校2年で文系(L)、政治経済系(ES)、理系(S)に進路選択するが、そのクラス数の比率は、1:5:7で文系は劣勢。キャンペーンをするものの、文系離れは止まらないという。
高校3年生の哲学には教育省による年間プログラムがある。「主体」「文化」「理性と現実」「政治」「道徳」という分類の下でさらに「意識」「知覚」「無意識」といった小項目が設定されている。文系(L)、政治経済系(ES)、理系(S)で習得すべき項目が分かれている。概念の指標として、「絶対/相対」「信/知」「普遍/一般/特殊/個別」といった概念対が設定されている。そして、参照されるべき哲学者がプラトンからレヴィナス、フーコーまで60名ほど指定されている。ただし、プログラムは緩やかな規定に過ぎず、どのような内容でこれらの内容を教えるかは現場の教師に委ねられている。
授業参観したミュリエル・エヴァック先生は、19-20世紀の人種主義を取り上げて、私と他者の問題を軸に講じている。 今日の話は、科学がいかに偏見を補強して、人種主義差別を確固たるものにしたのか。自然を分類する思考がいかに価値判断を含む階層化をもたらしたのか。分類の発想によって、鉱物・植物・動物・人間と区別され、さらには、同じ人間が分類され価値づけられていく、男>女、市民>奴隷、白人>黒人というように。ベルニエ司祭、博物学者リンネ、比較解剖学者ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハの言説が歴史的に比較され、現代の問題と接続される。彼らの文章を説明なしにそのまま読んでみて、現在の排外主義的な極右の「国民戦線」の主張と見分けられるだろうか、差別の本質は何ら変わっていないのではないか。
11月はじめはトゥーサン休暇で、高校では語学の先生が自発的に、海外研修旅行を組んでいる。ローマ、バルセロナ、ロンドンに教員が有志を募って、数日間の文化研修に出る。それに対して、学年全体の修学旅行はない。エヴァック先生は驚嘆していた。「教員全員で数百人の全生徒を引率して、旅行! フランスではありえないわ! なぜそんなことができるの、日本の先生は。」
ヨーロッパ文化遺産の日
9月第3週末は「ヨーロッパ文化遺産の日」。フランスが1984年に始めた催事で、今ではヨーロッパ50ヶ国が参加する一大イベント。国会や大統領府、美術館や博物館などが無料開放される。普段は入れない場所を一般市民に公開する、すがすがしいイベント。国民議会とソルボンヌ大学を訪問した。
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国民議会は開場30分前から長蛇の列で、セキュリティチェックが厳しくて、入るまでにかなり時間がかかる。国民議会(ブルボン宮殿)のかなりの部分が順路になっていて、この施設の歴史的意義を十二分に堪能できた。荘厳な図書館の天井はドラクロワ作で、ジャンヌダルク裁判資料、憲法草稿など、貴重な資料も保管されている。フランスを象徴するマリアンヌの胸像展示室も。記念写真をとるからインスタグラムにアップしてね、のコナーも。本会議場も見事な半円で、この荘厳な雰囲気のなかで議論がなされるのかと感心した。
ソルボンヌ大学は、13世紀にソルボン神父が神学学校を発端とする世界最古の大学のひとつ。ソルボンが当初教えていた校舎はちょうど、現在の中庭に当たるという。17世紀にチェペル部分を含めてギリシア神殿のような姿で改築され、19世紀に末に現在の校舎にさらにリニューアルされた。今回改めて感じたことは、これが大学か、というぐらい荘厳で優美である、ということ。
南のエコール通り(その向かいの公園にモンテーニュの銅像があって大学を見つめている)の大広間から入ると、ホメロスとアルキメデスの彫刻。それぞれが、文芸(Lettres)と科学(Sceinces)を象徴しており、そこから左右に分かれた階段も「文芸の階段」「科学の階段」と名付けられている。
2階の列柱回廊は、壁一面、歴史的な出来事の大壁画で覆われている。アベラールがすでに9世紀からこの地で自由な学術活動を始めていたこと。聖ルイ王がソルボンに学院設置の許可を与えたこと。リュシュリュー枢機卿が立ち会ったソルボンヌ教会の起工式。デカルトとパスカルが空気の重さについて論争したこと。ビュフォンが『博物誌』の草稿を友人に朗読した場面。
壁に飾られた絵画の数々(フレスコ画ではなく、布地に描かれている)は具象と抽象で織り成されており、歴史的人物を描くものもあれば、寓意画で学術を表現するものも多数。大階段教室は圧巻で、Chavannes作の「神聖なる樹木」(知恵を生み出す学問の寓意)が正面の壁一面を覆っている。
「ヨーロッパ文化遺産の日」の参加者はピクニック気分で、しかし熱心に散策していた。随所に配備された警官が目を光らせている一方で、案内役の職員らは実にフレンドリー。「共和主義」の原義は「公共物」「みんなのもの」。特別な施設も万人に開放されたこのイベントを通じて、日本にはない「共和主義」の意味に触れた。
大学入試改革
マクロン大統領が誕生して、数ヶ月間の議論の末、2月に文科相からバカロレア改革案が提示された(実施は2021年度から)。まず、高校在学時の文系、社会経済系、理系のコース分けは廃止。学生は一般科目群を学びつつ、2年生から専門科目を三つ選択履修する。これはイギリスのA-Level方式の導入。共通科目は、フランス語、哲学、歴史地理、道徳市民教育、外国語1・2、体育、情報科学(これは新規導入)。
バカロレア試験は、5月に専門2科目、6月に哲学とフランス語に科目数が大幅に削減。現在は170,000人の試験官が1枚5ユーロ(700円)で採点しているので、大幅な経費縮小にもなる。新たに口頭試験が設けられ(これはイタリア式の導入)、3人の面接官と20分間の試験がおこなわれる。伝統的な哲学試験がすんなりと残ったことには驚いた。
改革案に対して、大規模な反対運動も実行された。大雪の日もあったが、2月は毎週木曜にフランス各地でデモ。各地の大学や高校ではそのたびに校舎がバリケード封鎖され、授業が開かれない。抗議の矛先は「学生の選選抜」。今回の改革は「学生の選抜」が目的のひとつで、バカロレアを取得すれば大学に登録できたこれまでの「平等な方式」とは異なる。激しい競争と選抜からなる高等教育体制を敷いている日本からすれば、また、現状をみるにつけ、少しぐらい選別した方がいいのでは、とも思ってしまう。
4−5月になると、大学改革に反対して、多数の大学が封鎖された。年度末試験の実施が困難となったが、学長の指令で機動隊が入って封鎖は徐々に解除された。新たに導入される「選抜の原理」に学生らは反対しているが、現実として、1年次に厳しい選抜が機能している。実際、1−2年間で1年次を修了する学生は53%で、さらに、3年間で大学を修了する割合28%、3-4年間で修了は41%にすぎない。バカロレア合格が9割に達していることは、この試験の内実を示している。開放入学制をとっているので、実際、1年次で選抜される。同じことは、修士1年次にも言えて、院入試の選抜がない分、2年次に上がれない院生が出てくる。
大学教員はこうした現実をうんざりするほどわかっている。ミスマッチは頻繁に起こり、やるきのない学生が多いと、勤勉な学生にも影響する。「日本の大学がうらやましい、事前に選別されて、同じレベルの学生が教室にいることがどれほど楽か」という人もいる。大学の大衆化と選別の原理は、どこかで折り合いをつけなければならない課題だ。
大学教員の公募システム
イナルコのポスドク研究員にフランスの教員公募の仕組みを深く教えてもらった(日本学研究の分野)。まず博士号を取得した後、教授資格を取らなければならない。高等教育研究省のポータルサイト「Galaxie」にて、個人アカウントでページを作成する。「Galaxie」では、かなり詳細な情報が掲載されており、契約内容(初任給から最終給与までの金額も)などが示されている。
個人ページに基本的な個人情報を打ち込み、履歴書(書式自由。そもそも日本以外に履歴書書式などあるだろうか?)、学位記、博論審査の報告書、業績3点などをアップロードする。教授資格は4年間有効で、切れたら再更新しなければ公募に挑戦できない。逆に言うと、博士号を取得してから4年で常勤職を見つけろ、というプレッシャー。
教授資格を得た後、公募可能な状態になる。2-3月に公募が出始め、4月頃に書類審査、5月に面接(6-8名程度)を実施。面接は45分程度だそうだ(自己紹介と質疑応答)。フランスの大学や研究機関はほぼ国立で、その数は少なく100ほどだろう。日本学研究の公募は年3−4ある程度で激戦。しかも、フランスの公募では、18世紀文学、古代哲学などと分野はほぼ限定されているから、適切にマッティングしない限り応募さえできない。今日話したポスドクは4年間求職して頑張ったけど、諦めて田舎の実家に帰るという。
フランスの公募は申請者と大学側のやりとりがポータルサイトにて一元化されていて簡便。個人アカウントに履歴書や業績をPDFでストックしたままにできるのも時間の節約。日本の大学が異なる書式で履歴書を要求し、業績のコピーを送付しなければならないのは、若手にとって膨大な時間とお金の無駄。私も何十回も不採択だったからその苦役の徒労感はよくわかる。フランスに習うならば、JREC-INとResearchmapを統合して、公募時にほとんど書類を書かず、業績のコピーを郵送しなくて済むようなシステムが望ましい。
12月、フランス日本研究学会の若手リサーチワークショップに参加した。フランスの日本関連の研究者が加入する最大の学会で(会員数170ほど)、若手の発表会と大規模シンポジウムを各年で実施している。今日は博士論文を執筆中の若手が発表をし、フロアの先生方からは鋭いコメントが相次いだ。意外だったのは、日本人の発表者も多数いたことで(16名中6名)、みなさんいろいろな事情や決断から、日本のことをフランスでフランス語で研究するという道を選んでいる。
最後の討論会「博士論文の活用」は有益だった。先生方が博士論文執筆後に、どのようにアカデミック・ポストを得ればいいのか、その仕組みと秘訣を丁寧に説明してくれた。
まず、博士論文の審査が終わると、ポータルサイトGalaxyへの登録が可能となる。このサイトに登録して、専門分野で大学ポストに応募するための「資格」を得る。12月20日頃が締め切りで、それを過ぎる場合、次年度の就活となる。
日本学関係の基準は次の通り。1)日本語の高度な習得 2)教歴(その科目内容は問われない。高校の授業経験もOK) 3)自分の専門研究以外の論文発表1−2点(3年で博論だけを仕上げるより、少し長めの期間で博論を書き、それ以外に多様な成果[実りある寄り道]がある方が好ましい) 4)国内外の学会やシンポジウムでの発表(学術活動に参加しているという証明)
さて、「資格」が得られると、次に実際に公募に挑戦する段階。注意すべきことは、公募条件(「現代日本の社会科学」など)をよく吟味して、マッチングを考えること。また、書類の後で面接まで呼ばれた場合には全力で準備すること。もし不採用だとしても、審査員の記憶に残るからだ。面接官は8名で、男/女、同大学/他大学、日本学関係者/それ以外の専門家でそれぞれ半数で構成されている。応募者は15−20分話し、日本語能力を試す時間も10-15分程度設けられる。これまでの研究業績については書類審査で吟味されているので、むしろ就職後の将来ヴィジョンが重要。大学に設置されている研究所で、どんなテーマで、どんな研究チームで貢献できるのかをアピールすることが不可欠。
これらは日本のポスドクにもあてはまる有益な助言だろう。学会のなかで時間を設けて、説明してくれるのはありがたい。日本でも先輩や先生からの個別の伝達だけでなく、学会単位でやった方がよい(とくに就職の審査基準の明確化)。
アングレーム国際漫画祭
1月、パリから南にTGVで2時間、アングレーム国際漫画祭を訪れていた。1974年に始まったこの漫画祭は、「漫画のカンヌ映画祭」と表現されるほど知名度の高い祭典で、4日間で20万人以上が訪れる(アングレームの人口は4万人)。今年は日本漫画が大きくとり上げられ、、浦沢直樹、真島ヒロらが招待されて展示や講演がおこなわれ、手塚治虫の世界を概観できる展示もある。
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街全体で祝う伝統的な漫画祭という雰囲気で、フランスだけでなく世界中から来た人々、子供や学生の集団まで、多くの人が会場と街路を埋め尽くす。教会もマンガ、その祭壇もマンガ、商店街にマンガ、市役所や美術館にマンガ……。市内各所に会場がたくさん設けられていて、4日間ずっとイベントを開催。
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出版社が漫画を展示する大きなパビリオンは5つあるが、フランス以外のさまざまな国の漫画が「新世界」館に集められているのに対し、日本漫画は「マンガ館」として1館が割り当てられている。市内中心部になぜこんな大きなパビリオンがあるのか、と思ったが、すぐに謎が解けた。普段は市場が立つような歩道や車道の中州の空間にテントを張って、横長の巨大な簡易施設を設けているのだ。公共空間に余裕のあるヨーロッパ都市ならではの柔軟な活用法。
「マンガ館」ではマンガ学校のブースを発見。フランスには近年、2つのマンガ学校が設立され(アングレームとトゥルーズ)、フランスのBDではなく、日本マンガの書き方を教わるという。年間授業料は80万円ほどで、4年間のコース。数年後に誕生する卒業生の活躍に期待。
翌土曜日は11時より劇場で浦沢直樹のイベント。今回の目玉の一つで、75ユーロ(約1万円)の4日通し+浦沢特別券を買わないと入場できない(1日券は12ユーロ)。それでも長蛇の列で、会場の600席がほぼ埋まった。
イベントは、主にアコギの弾き語り演奏で、合間に即興でのデザイン・パフォーマンスとトーク。遅れて始まったものの、2時間にわたり、サーヴィス満点の内容。最初に買った海外アーティストのレコードはボブ・ディランではなく、実はこの人のアルバムでしたと、似顔絵を描く。「ミシェル・ポルナレフ!」と会場から応答。
質疑応答も多数。「物語を上手くつくる秘訣は、書き手の思い通りにならない登場人物を用意すること。僕の登場人物はみんな僕の言うことを聞かないので、話が長くなり、しかし、面白い筋書きになる。」「創作は旅のようなもので、とりあえずの到達点を想像する。最初は経験不足だけど、旅の途中で経験が豊富になり、到達した頃には景色が違ってみえる。そこからまた旅が始まり、そのくり返し。」
マンガ館では討論会「フランスでの日本漫画の30年」も開催。日本漫画を翻訳・販売してきたKANAやAKATAといった出版社の関係者ら5名が登壇した。30年の歴史は「悪魔化」「適合」「受容」と時代区分された。日本にエキゾティックなイメージしかなかった頃、日本漫画は一定の人気を得るものの、暴力的で性的なので、子供には悪影響だと喧伝された。日本文化の祭典Japan Expoが2000年に始まって、漫画への理解が浸透。アングレームで水木しげるが『のんのんばあとオレ』で2007年に最優秀作品賞を獲得し、大手メディアも日本漫画をに認めるようになる。
日本政府も「クール・ジャパン」の戦略として漫画をソフトパワーとして海外発信することに力を入れるようになる。登壇者からは、政治による上から目線の文化輸出はうさんくさい、自分たちが文化的偏見と戦ってきたのだから、とも。たしかに、ソフト自体が魅力的であるだけでなく、彼らのような現場の当事者の努力があってこそ、日本文化の否定的な評判が払拭されて、受容された面もある。
今日は土曜日とあって、朝からものすごい来場者。どのパビリオンも長蛇の列で、コスプレもちらほらおり(ゆるーいスターウォーズ・コスプレの行列など)、街中がお祭り騒ぎ。(行ったことはないが)東京のコミケが国際展示会場を借りて華やかに実施されるのに対して、アングレームは町ぐるみで漫画祭が実施され、数十年を経て、町の至ることころにその歴史が沈殿している雰囲気がした。
JAPAN EXPO
JAPAN EXPOが、2018年7月5-8日、パリ空港の近くにあるノールヴィルパント展示会場にて開催された。24万人が来場する巨大な日本文化イベントで、週末の大混雑を避けて金曜日に行ったが、朝からもの凄い人の数だった。いくつかのホールを借りて設置された会場は巨大で、セキュリティチェックだけで1ホール、チケットブースだけで1ホールを使い、展示には4−5つのホールが使用されている。
HPでの説明によると、「JAPAN EXPOとは日本とその文化に恋い焦がれる者たちの約束の場所。マンガから武芸(剣道、弓道、合気道など)まで、ゲームから伝統芸能まで、J-POPから伝統音楽まで。日本文化に関心をもつすべての人々にとって見逃せないイベント、日本への好奇心が強い人々にとって無限の発見に満ちた場所だ。」
JAPAN EXPOは、漫画・アニメ・ゲーム・音楽などの大衆文化と、書道・武道・茶道・折り紙などの伝統文化からなる。また、同人誌ブースやコスプレイベントもあり、フードコートではおにぎりや丼飯が売られている。日本国政府も連携しており、外務省、経済産業省、観光庁は、日本文化を発信する最大の機会として、EXPOに参画している。東京だけでなく、いくつかの県など地方自治体単位でもブース出店がなされ、アニメ聖地巡礼などの観光アピールがなされている。
ピコ太郎やtrfらが招聘され、『文豪ストレイドッグ』が初上映され、SF漫画『コブラ』の寺沢武一が特別展示され、セシル・コルベルと岩佐美咲(元AKBの演歌歌手)のコラボなどがおこなわれた。日本文化とはいえ、日本人が慣れ親しんでいるありのままで示されるものもあれば、現代風に加工されたスタイルもある。チャンバラ劇や三味線や応援団はハードロック音楽に乗せられたり、コスプレはアメコミやフランスBDのキャラでもいい。
正直に言うと、ここに集った多数の人々が日本文化を体現し吸収し、大いに楽しんでいる光景に深い感動と感銘を覚えた。これはナショナリスト的な感情だろうかとその所在を考えあぐねている。要するに、ここにあるものは日本であって日本でないものだ。フランス人はもちろん、日本人であろうと、ここで表現されているものは過剰な日本文化だ。フランス人は他者たる日本文化を最大限想像し、日本人は他者たるフランス人の視線を想像しており、ミスマッチも含めて、そのずれが独特の熱狂を生み出している。
フランスでの日本語教育
6月、フランス日本語教師(AEJF)発足の20周年シンポジウム「これからのフランス日本語教師会を考える」がパリ日本文化会館にて開催された。AEFJは172名の会員を抱える協会で、高校や大学で語学科目を担当する女性非常勤講師が多いようだ。フランスにおける日本語教育の歴史と課題を考えさせる充実した発表を聞くことができたし、日本のフランス語教育にも通じる点が多かった。
・日本語教育において、言語と文化の両側面が重要。フランスの中高校では語学が選択必修だが、それは言語への参加義務だけを意味するわけではない。文化的特色をうまく取り入れないといけない。現場で日本語だけをストレートに教えようとするとつねに問題が生じる。
・詩の朗読は重要。古典的な詩には洗練された表現が凝縮されているから。四文字熟語も言葉の意味だけでなく、日本的思想を感じてもらう点で貴重。
・文法はともかく、語彙の習得は中上級になってもずっと続く。だが、残念なことに、フランスでフランス人向けに編まれた優れた日本語辞書はない。実に、Dictionnaire japonais-français, Gustave Cesselin, Maruzen, 1939を越えた辞書はこの90年間、ないのではないか。ネットや携帯アプリの粗悪な辞書で、しかも、最初の意味だけを安易に参照する学生がほとんど。電子辞書を買っても学生は機能を十分に使いこなせないことが多い。紙の辞書の重要性を再確認。
・日本語教科書は往々にして日本的イデオロギーに満ちている。学術的に確かな教科書はどれか、検討して評価基準を吟味する機会が必要。
・日本語教育を考えるときにそれだけでなく、フランスの教育制度のこと、誰に教えているのかという宛先のことなど、より包括的な視点で考えないと実効的な議論にならない。
・AEJFで活動するのはいいが、孤立した内輪の互助会にとどまらないためには、政治的な行動や発言が必要。大学行政に介入したり、仏日の教育省庁や機関に働きかけたりすること。
・CAPES(中等教員免状)に2016年に日本語が加わったのは画期的な進展だが、問題は安定的に毎年ポスト数を維持すること。
・AEJFには、フランス人専任教員がほとんど参加していないため、ある種の断絶を硬直させているのではないか。日本語ではなく、フランス語で発信しなければ、存在感はゼロ。
パリ日本人学校
中1の娘はパリ日本人学校(パリ日)に入学した(息子も半年後、小1クラスに入学)。パリ日は1970年代にパリ市内に創設され、一時は児童400名に膨れ上がって、施設の定員をオーヴァー。1990年に現在の新校舎ができた。日本の学校指導要領に基づいて、日本から数年契約で派遣された教員らが教える。ただ、フランス語と英語の授業がある。
新校舎はパリ南西部にあり、市内からは30キロほど離れた場所にある。森に隣接した広々した校舎と運動場、体育館は実に恵まれた施設。ただ、パリからの通学が困難なため、父兄らで通学バスを4系統運営している(バス代だけで月26,000円ほど)。現在は小中で180名の子供らが学ぶ。
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ヴェルサイユ庭園での遠足、ユネスコ見学、自然史博物館、動物園、ゴッホ臨終の地、ポンピドゥーセンターのガイド付き鑑賞といった社会見学。日本語を学ぶ生徒がいる現地校との交流会。野球選手、オリンピック選手、宇宙飛行士の講演会。文化祭と発表会。中1の実習は(日本の場合なら日帰りで林間学校だが)1週間ブルターニュの海沿いの村に泊まって、ヨット実習と塩田見学と豪華。パリにある唯一の日本人学校だけあって、力の入ったプログラムだ。
11月、お祭りが開催された。役員らが懸命に準備して、いろいろな企画を盛り上げる。フランスに進出している日本企業の協賛支援も得ている。現地日本食レストランによるお弁当販売、子供へのお菓子プレゼント、餅つきや琴の演奏、射的や釣り堀など。古物市には日本の本やおもちゃがいっぱいで、中古だけれど、小体育館いっぱいに並べられた日本の商品は輝いていた。
5月は運動会。小中学生合わせて200人ほどしかないので、1−2年生というように2学年が混合して、競技に臨む。小1の息子ははじめての運動会で忍者ダンス、中1の娘は空手と琉球舞踊。雨の予想だったが、見事に晴れて、照りつける日差しが暑かった。
小中合わせて200人弱の規模なので、田舎の学校のように、全員と交流する機会がある。ただ、日本の田舎とは異なるのが、転入出の多さ。小中6年間すべてを通う子供はごくわずかで、ほとんどが数年で転出し、また、いつでも転入生がいる。日本に帰国する子もいれば、別の国に移動になる子もいる。はじめから一期一会の定めにさらされたこの異国の日本人学校は独特の連帯感と刹那に満ちている。転入出の数は多いが、しかし、歓迎と送別の機会をしっかりと設けて、この地での経験を各々の人生に刻みつける。7月末、一学期最後の日、昼過ぎに下校後、多くの生徒が公園に集まって、猛暑の炎天下、スイカ割りをやり、夕方まで大いに遊んだ。さようなら、パリ日本人学校。